手の写真等

■写真における手パラダイム 1

 昨日は小林さんのレクチャーで手写真の話を聞く。
 手という関心は、今書こうとしている写真論のひとつの重要な装置になるので、写真史のなかの手を時代ごとに現在まで振り返った話は参考になった。たとえば――本レクチャーのなかでは触れられなかった含意もふくめて――、まとめてみると、、、

 手というのは、写真にとっては独特な意味をもつ。それは写真が従来の芸術のように創造的な手を介在させない媒体であったからかもしれない。その代わりに、手の欠落を補うようにして、手が被写体として写真の中に登場する。それは一方では、手が光の接触した痕跡としての写真を比喩的に示しうるものであり、そして他方で、写真を触れる数々の手との隣接的=換喩的な接触を喚起しうるためのものだったからではないか。例えば手のダゲレオタイプが例として少なくないのも、あるいはダゲレオタイプにはそのダゲレオタイプを手にした被写体が画面の中央に位置したものが多いのも、こうしたことが一因になっているのかもしれない。
 もちろん美術の歴史をさかのぼれば、手による身振り記号のふんだんに盛り込まれた宗教画や神話画、あるいは手のデッサンというものが数多く残されていることは周知のとおりである。たとえば、キリストの祝福する手の身振り記号とか、画中の寄進者が観者の注意を誘導するためにとる指し示し手の身振りとか、例は数多い。
 しかし、写真の場合、被写体としての手、それを創りだす手、双方がともにある分割線を入れられることになる。トルボットの撮影した写真の中には上のような例が残されている。この写真、この研究書では横向きだが、別の研究書では縦、指が上方に向かう方向でレイアウトされている。手は画面の中の向きによって異なる意味をもちうる、そうしたことを各トルボット研究書は述べている。
 しかし、そうした方向性と従来の絵画的コードより、そうしたものとの切断こそが重要なのかもしれない。手の接触と分離いう事態が、写真における手の表象の基礎にはあるようにも思えるからである。写真における手との乖離を補う手の接触の痕跡。
 19世紀後半も進むと、手の写真は別の種類の写真の中に頻繁に顔を出すことになる。
 それが心霊写真であった。

(つづく)

■パノラマ報告 アルトエッティング
 磔刑パノラマの各国での顛末を整理する。ピグルハインによるパノラマ著作権の、パノラマ会社への譲渡、ピグルハインのチームの画家たちの磔刑パノラマのコピーと流通、各地のパノラマの構図を手元にある資料で調べる。アルトエッティングのパノラマとピグルハインのパノラマの比較を少々してみる。

 巡礼地についての論文も注文する。巡礼地の磔刑パノラマは必ずしもそれが宗教的機能を充分に果たしていた訳ではない。そのために宗教関係者からの異論が噴出して解体の憂き目にあうケースもある。
残りは明日。