つづき

■つづき
 で、昨日の書評会の感想。
 音楽に対するアカデミックな言説と音楽の現在の一般的受容の実情、あるいは音楽の主観的印象批評と形式主義的な学問的言説、そうした現状と言説、言説相互の乖離、そこにどのようにして自ら言説をつむいで実践的に別の言説空間を切り拓くかという話を著者から聞く。
 わざわざポピュラー音楽の受容に美学的なむつかしい作品概念や作者概念をもちこんで、経験的観察は後回しにしてどうするの、という批判がディスカッションのなかで提起された実直な疑問だった。たしかにそうした疑問は分からないわけではない。
 しかしその疑問に対する応答でも述べられたように、実は進行している事態は逆であるように思う。あるいは、そうした意味では、ポピュラー音楽について美的概念で議論してくれた本に喜ぶきわめてシンプルなポピュラー音楽の受容者も、議論の核を捉えていないような気がする。
 一般的受容においてしばしば口にされる批評未満の批評の数々の言葉、ここにはなぜかかなり古めかしい作品や作者概念がそれほど検討されることもなく使われている。あるいは、盗作問題や著作権問題に関して、メディアの多くが実に何事もなかったように古めかしい作者性を紋切り型に流す。それは映画や写真においても事情は変わらない(そしてそれは、高尚な芸術とかポピュラー音楽とかに限らない話でもあると思う)。
 そうした作品や作者についての錯綜した意味合いを掘り返し、アカデミック外の言説にぶつけると同時に、何の反応も採ろうとしないアカデミックな言説にもぶつけていく、そうした異なる言説のあいだの余地を切り拓く仕事は必要なものだと思う。それは観察していればよい経験をただむつかしい概念枠で測定していることではない。たしかにそれを作品や作者という枠で考える必要性があるのかという疑問は生じてくるだろう。もはや作品と呼ばなくてもよいのではないかと。しかし、先に述べたように、現在奇妙な復活を果たしているこうした概念をつくことは必要な作業であり、また、異なるふたつの言説に摩擦を生じさせるためには、作品や作者という楔が案外有効だと思う。もはや作品や作者と称しなければ、言説は交差しない。経験の枠組みになっている準拠枠も揺さぶられることがない。

 同様の厄介な状況は、例えば映画についての言説でも確認することができる。
 

映画の政治学

映画の政治学

 そういう意味で、問題意識の点で、写真にとりくむ言説には何が必要かということの補助線を引くことができた。ただし、写真の厄介さは少し性格が異なっているのかもしれない。

■写真の物質性
 もうひとつ、――いずれCDの物質性に郷愁を感じる人もでてくるにちがいないとかという――話をしていて思ったのは、現在写真の受容を構成している大部分が、プリントしないままの写真受容であるということ。これはミクシででも。

■写真うた
ステレオダイアリにまとめておきました。本サイトの久々の更新です。