心霊映画と心霊写真

■心霊メール
帰京すると郵便受けからはどっさりと心霊系の資料が飛び出してくる。軽い嫌がらせに近いがすべて注文品。…日常に戻った感じがする。

ケータイ電話の怖い話―あなたの隣の怖い話シリーズ (二見文庫―二見WAi WAi文庫)

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そして
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パッケージの白目むいた画像はやめてほしい。ベタに怖い。

■心霊映画と心霊写真
先に挙げた心霊映画論を読みながら、新幹線の車中で枠組みを考える。黒沢清論によれば、ホラー映画には4つの種類の怖さの表し方があるという。
(1)ひとつめが、怖いものがただひたすらに過剰に出てくる種類。
(2)ふたつめが、怖いものがどこかに存在することを修辞的に示そうとするもの。
(3)みっつめが、イメージそのものの存在の怖さを示すもの。
(4)よっつめが、非在それ自体の怖さを示そうとするもの。
 例えば、(1)はチェンソーをもった怪物がフレーム内で追いかけてくるものであり、(2)は、カメラの動きなどによって無人称的な「それ」の視線を示すものであり、(2)は(1)と結び付られるのが基本パターンであり、(4)は(3)とは表裏の関係にあり、(3)のどこにも「ない」がイメージとしては「ある」ものの怖さが、(4)「ない」ものが「ある」ことの怖さへと移行する、そうした基本パターンを踏む。この論では、(3)が少々分かりにくいのではあるが。

 心霊写真にもこの分類は当てはまる部分が多い。
 歴史的に辿れば、最初に「ある」ものを「ある」ものとして示すタイプの写真――交霊会写真――があり、やがて見え「ない」ものを「ある」ものとして示すタイプ――一般的な心霊写真――が登場し、「ある」はずのものが「ない」タイプが生じてくる――手足がない心霊写真――。さらには過剰にある心霊写真――手足の余計な心霊写真――もあり、やがて「ある」ものが歪曲して染みとして消失しかけている写真もある。
 ただし、カメラの動きと編集、静止と運動が映画における心霊の、写真における心霊との大きな隔たりになっている。もちろん、この論は、黒沢映画の怖さが(1)→(2)でも(3)→(4)でもない奇妙な組み合わせをしているという指摘に核がある。

■応え
 16日のコメント質問には16日に簡単に返答しておきました。「どう考えればいいのか」という質問には、以前、写研の掲示板(今は閉鎖中)でも述べましたが、申し訳ないのですが、「どう答えていいのか」分かりません。ということで、、、増田氏の東京でのシンポジウムの原稿ページをご覧になるとよいのではないかと思います。