なつかしい写真、もの写真、記憶の立体性

■刺繍と写真
バッチェンのヴァナフォト本通読終了。さして難解な内容ではないのだが、ひとつひとつの事例が、写真を越えでる想起の厚みをもっていて、ついつい立ち止まってしまう。かつてあったと今あるだけにとどまらない、現在性の誘発のために、写真に加えられる細工がなかなか重厚なのである。

 刺繍と写真についての事例。
 
 19世紀のアメリカでは、家族の成員の死に際して何らかの記念物を縫うことや編むことは女性の役割となっていたという(この文脈についてはまた別に事例を出す)。ただし、ここで出てくる事例は図のように少々マッチョである。海軍での兵役の後に記念品として残されたもの写真。おそらく多くは既製品でこのように縫った布が額入りで販売され、そこに写真をはめ込むような仕組みになっていたようである。額縁にも当てはまることだが、この布の肌理に触れることが、写真を距離をおいて見ることと組み合わされている。

 もう一例。刺繍ではないが、男性が細工をしたと思われるもの写真。軍役につき家から離れていた男性が、手元にあった数少ない自身の写真と妻の写真を、手に入る数少ない素材である弾丸を加えてこしらえたもの写真。弾丸が写真を縁取り、弾丸が観者を狙う。しかしその含意は、軍役の記念と妻との結びつきの強さということ。どちらの例においても、写真はこうしたハイブリッドな立体的拵え物の一部になり、そうすることでかえって三次元的な立体性を獲得したのではないかということ。
 もちろんこれもマッチョであるが。そして夫が軍役で死亡しているならば、意味合いはさらに変化していくことになる。

■なつかしい写真、草写真
今月のBTは画材講座。その特集以外に妻有情報もある。尾仲氏の「なつかしい」写真についての竹内さんの文章ももちろんチェック。フツーの写真が実はラディカルなのかもしれないとも思う。
 たぶんこれとは全然関係ないけれど、今年出たシンポの時に草野球ならぬ「草アート」という言葉を聞いた。中身は知らないけれど、草アートという語はいろいろな思考を誘発する。もの写真も草写真のひとつである。もちろん草野球の持つ男男しいニュアンスは少し差し引いて考えたいのではあるが。
 ちなみに「なつかしい」については、前期のかわいい論ノスタルジー篇で考えたことをまとめたいが、70年代以降のなつかしいのあり方を、ジェイムソンの議論などを参照しながらもう一段階構築してみたい。なつかしいの記号が時に自己言及的になりながら、ひとびとの毛穴の奥にまで入り込んでしまうというなつかしいの遍在化、それを扱うには、まだ準備が要る。これはなつカワ(写真)論として。