心霊映画と心霊写真

入れ子式の怖さ――女優霊――

 昨日の発表でも説明されたように、この映画は入れ子式の反復構造がループを描いていく怖さが軸となった映画である。つまり、映画内映画のメタ映画という体裁をとっている映画。しかし、普通のメタ映画以上の入れ子構造があり、それが映像の怖さの引き金になっている。つまり、、、
 1.女優霊という映画のなかで撮影されている映画(戦時中の話)というレベル、
 2.それを撮影している様子を示す女優霊という作品そのもののレベル
 3.そしてそうしたメタ映画を実際に撮影しているレベル、
   あるいはそれを観客として見ているレベルがある。
 4.しかもそこに物語内で撮影された別の物語のフィルムが写りこんでしまっている、そのレベルもさらに入れ子になっている。
 この最後の、ほとんど言葉やフィルム片のみで説明される物語の映像を、監督は幼少時代に見たと主張する。実は放映されてい「ない」はずだがラッシュのために現像されて「ある」ことになる映像、その筋も奇妙である。それは、実はい「ない」はずの女性を母子がごっこ遊びとして楽しんでいたが、子どもを疎ましく思った母がそのいないはずの女性役を演じて子どもを殺そうとするという筋である。
 ところがその未放映ドラマ撮影中にそのないはずの女性の姿が撮影現場に実際に現われるようになり、母役の女優は転落死を遂げる。しかしその事故の原因はさらに遡ればおそらくまた何か別の虚構と現実のレベルがあるような印象を与え、この虚構と現実の二層が際限なく繰り返されていくような構造になっている。(もうひとつ付け加えておけば、映画自体の主演女優=物語内の主演女優を監督がセレクトすることになった映画は、その女優が母を演じた映画であり、また監督が子ども時代に現像もされていない上記の映画を見た時期は、彼の母が入院中で不在であった時のことである。)

 この無際限の映し返しが、先に述べた映画内映画の中に入り込み、入れ子を増幅させていき、映画を見ている人々の距離を奪い、無限の連鎖に彼らを巻き込んでいく。それぞれのレベルで起きたことが別のレベルで反復される。時にほぼ同じ映像として反復されたり――最初のラッシュの憑依した女性の高笑いする映像と映画の終わり近くの代役の女の子が高笑いする映像――、せりふのみが別のところで反復されたり――もうおねむだから云々――、編集機器やフィルム片の拡大という方法で同じ映像が反復されたりして、霊と思しきものの姿も1から2、2から3へと繰り返し姿を現し、逆に1以前の−1、−2と遡っていくような印象も与えていく。心霊映画的に面白いのはこうした繰り返しのループにある。
 心霊映画として、ただ心霊ビデオが現実に祟る映画を映画館で見ているという怖さが『リング』の要であったとすれば、こちらの女優霊は、その枠がどこか無限に拡張していくところが怖い。昨日の話の軸のひとつは、そうしたループがきわめて論理的にくみあげられているところが女優霊の怖さだということだったと思う。たしかにその通りだと思うし、ひとつの枠を別の枠で反復する入れ子式の映像の怖さは心霊写真の要のひとつでもあった。
 しかし、この映画のどことない不穏な怖さは別の所にもある。
 ひとことで言えばそれはないものがある怖さだと思う。
 これについてはミクシで続きを書く。

■心霊写真と心霊映画、あるいは静止と運動1
で、心霊映画論の後押しを受けて、9月末と10月下旬の話の図面を考えてみる。

 霊表象(写真や映画)というのは、ないものがあることが怖い。それを支えているのは、写真以降の記録メディアの性質である。あるものがあることを支えている映像への信頼があってはじめて心霊映像表現は可能になる。写真においては、ない(なかった)ものがあるタイプがスタンダードになっている。また、これとは逆にあるはずものがないタイプもある。対になった二種類の霊表象の仕方がある。

一枚の静止映像である写真とは違うものの、映画でも、ないはずのものがあり、あるはずのものがなくなるところに怖さがある。もちろんすぐに断っておけば、心霊映画は心霊写真とは違い、一方では虚構の物語が演出されたものであるし、他方でたとえ撮影のセットであっても実物がインデックス的に写し取られた像でもある――したがって正確に言えば、心霊写真と並ぶのは心霊ビデオになる――。心霊映画では、後者のインデックス的要素を支えにしながら、前者の要素が巧妙なしかたで物語的な現実として組み立てられ、なおかつそれが霊によって脱臼させられるところに怖さがある。
『女優霊』の怖さは、そうした虚構と虚構内現実と現実の境を侵食するような入れ子式の構造にある。一般に、実話型という枠組みが心霊映画の怖さを支えていたのも、入れ子式による侵食が理由にある。心霊写真とは違い、こうした巻き込むための構造が心霊映画では有効である。
もちろん、心霊写真にも入れ子型の話は多い。それは現実の足元をそうした合わせ鏡の中ですくっていくような働きをしている。その意味では、写真と映画は対照的な構造をしていると言うことができるかもしれない。一方(写真)は現実から非現実へという回路、もう一方(映画)は虚構から現実へという回路が霊の通り道になる。たしかに根の部分はインデックス性が支えているが。
さらに付け加えれば、心霊映画では、入れ子式や実話型を取っていない場合でも、生身の肉体をもつ俳優を霊として「ある」ようにするためには、物語のなかで「ない」ものとして「ある」ように仕立てるための撮り方の工夫がいる。物語内の現実から半歩踏み出させるための表現、これが心霊写真の表現と比較できる興味深い表現だと思う。
 
映画のなかでは、ない/あるの表現は例えば次のようなものがある。
…と思ったが、これはまた明日。