メディア論としての心霊映画


■読書会みはからい
読書会。ディディ=ユベルマン聖骸布をめぐる議論。まだ前口上。
ついでに見計らいで次々と出色の本がやってくる。

Thomas Demand: Catalogue Serpentine Gallery London

Thomas Demand: Catalogue Serpentine Gallery London

今度のデマンドは洞窟。
Axel Hutte: North South

Axel Hutte: North South

ヒュッテの南北。
Richard Misrach: Chronologies

Richard Misrach: Chronologies

これもお薦め。
ミニマリズム ランドアートと環境アート アート&フォトグラフィー アート&フェミニズム
ずらずらとくる。英語版のコンセプチュアル・アートも写真関係でおさえておくべき巻。


■心霊映画/写真3
心霊映画においては、一昨日の入れ子式な物語構造もさることながら、映画の内に別のメディアを持ち込むことでメディア間の差異の隙間に心霊像を現さしめる方法もある。

心霊写真的表現
 先に述べた、ない/あるの視点つなぎとも連動するが、霊の遠さや画面のアレかたボケかた、センターからの外れ方や周囲の動きに対する静止性、半透明性がおそらく90年代以降のホラー表現の支えになっていた。これを心霊写真的な表現と呼ぶこともできる。つまり、ロングショットの画面の端にボケて判別のつかない白い顔のじっとたたずんだ霊、これが定型になる。ぱっと見では分からず、細部を走査させて気づかせる心霊写真的怖さ。その後にクロースアップで再確認させるパターンもあり、これは、心霊写真的ではなく、文字通り写真、ビデオなどの別のメディアを映画内に持ち込んで小道具にする表現でよく使われる。いずれにしても、ひとまず「ないものがある」表現のひとつである。

映画内写真:小道具として写真が使用される場合。
 これも鏡に並ぶ入れ子装置のひとつ。写真では、かつてといまが隔てられ、定かでない記憶を外部記憶としての写真がつなぐが、心霊写真においては、なかったはずのものがあるが怖さを引き起こす。心霊映画の中でも、小道具としての写真やフィルムの静止画を使うことで写真的な時制を転用することができる。
 物語において展開される現実の内では見えなかったものが、いま手元で見ている写真には写ってあるという表現。そして後日現像してみたら霊障の起きた箇所が消失していたり、白いもやがかかっていたりという因果的な確認用の表現もある。もちろん歪む写真という『リング』のような例もある。

映画内ビデオテープ:『リング』にも見られる心霊ビデオテープの用法は、過去の記録であり、写真と同様に、かつてあったものの隔たった現前に思えるかもしれないが、実は、ビデオ再生とはせきとめられたものをふたたび動かさしめ、かつてといまを無媒介に繋いでしまう。いいかえれば、過去をとびこえてのろいを現在につたえてしまう。場合によっては、過去の映像を見ていたはずが、勝手にその場の現在にふとつながってしまう表現まである。ほんこわ第二夜のビデオテープの使い方などがそれ。
 他方、ビデオテープを静止させる表現もある。
 あるいは先述の『女優霊』のようにフィルムを巻き戻しては見直すために静止させる表現もある。
映画内TVモニタ:『回路』でのTV画面のゆがみや部分的消失。そして監視カメラ映像もよく見られる表現である、、、
 
と挙げているうちに、どうやら心霊映画はメディア間の差異を霊的なものの発揮される場所としている、すぐれてメディア論的映画ではないかということが、分かってくる。 それはそうだろう、メディアは霊媒なのだから、と突っ込みが来そうだがそれは承知の上。

この項明日から旅行なので3日後に書きます。