つまり報告3――学校の階段――

■つまり報告3

考えなおしてみれば、今回の芸術祭の開催地、場所そのものが、階段状の畑も含め、作品が階段を模しているものから、階段を昇ってただひとりで鑑賞するものをへて、廃校の階段にいたるまで、階段づくしの場所でもあった。
階段は通常、ただの通過点にすぎない。それはとりたてて注意をひくことはない。立ちはだかって視界をふさいだり、急いで駆け下りたりするための経路としての縞模様の壁や地面にすぎない。しかし階段は時として来るべきものへの期待を高めもするし、不安定に足元に注意を傾注させておきながら、突如開ける視界を横殴りに送りとどけることもあれば、視野の開けない暗闇の中に誘うこともある。階段は光と闇、言い換えれば、視野と視野の向こうを分割してその間をつなぐ装置になる。

 階段は、ときに見晴らしの頂点と見晴らさられる光景となってめまぐるしい視野を開くこともある。階段状の光景と階段上の視点は上下の視点の格差を混乱させるからである。階段の上が別の階段の中段であり、その別の階段がまた別の階段の下段でもあり、それら複数の階段システムが斜めに交差して、全体としてなだらかな起伏を形成している。そうした上下の交錯する田園風景のなかでは、観者が動くごとにパノラマ的な重複面がめまぐるしく手前にわれ先にと立ち起きてきて途方もないパノラマ効果が生じる。
 例えば古写真を階上にグリッド状に貼り付けたなつかしい家屋は、そういう場所にある。視点の錯誤が軽く起きるような場所を吹きぬける風が、時間錯誤を起こさせるような写真を揺らす。あるいは、降りることのできない/昇ることのできない階段、この、足し算と引き算でしめてゼロの階段は、マイナスとプラスがやがて景観全体に散りはてていくことを宣言しながら、すでに崩壊しかけて草まで生えはじめている。そういうことのしだいを昇ることのできない経過の階段で示す。
 他にも階段下のデッドスペースを生かした作品、塔へ昇りゆくための暗闇の階段、天井の光を見るための光の館の階段、ことごとく階段の思考を誘発しそうな階段づくしの場所、それが今回の芸術祭の場所でもあった。
 ついでに「学校の階段=怪談」的視点から考えれば、階段の怖さはそういう階段的な中間にある。これは心霊映画論で後日。つまり関連はあと一回、書く予定。

■プリクラ論
以前、紹介したもの写真論関連で、プリクラ論をいくつか集めている。

Women, Media and Consumption in Japan (Consumasian Series)

Women, Media and Consumption in Japan (Consumasian Series)

これの「日本のかわいいものたち」
そして『マス・コミュニケーション研究』に掲載された「プリクラ・コミュニケーション――写真シール交換の計量社会学的分析」。いい資料になりそうである。

■鏡に映らない影
の話を書いたら、知り合いから澁澤がそんな話を書いていると聞き、調べてみる。みずからを分裂させて水面に童子の姿として浮遊させる仙人が、いかに自分のかつての影を消去したのかを語る、それが筋となった話。鏡や影の圏域ははてしなく拡がる。でも鏡といい影といい、局限して考えることが必要な気がする。例えばサイスくん(id:Sais)が読書ノートとして挙げているクラウスのビデオ(アート)論とか、ビデオの変な時間性が心霊映像論から議論できそうな気がしている。これは考え中。