歩行と影と色


■卒論の歩み
卒論諮問でアニメーション論を読む。ロトスコープというアニメーション技法がなぜ従来のアニメーションの言説では批判されてきたのか、その理由(手と想像=創造力の欠如、外界の関係との直接的な対応)を明らかにし、動きの連続性をうがって滑らかなまことしやかな運動がどこかにはみださないかを探求する論。ほつれは多かったし、それこそ論文自体の連続性が危ういところもあったが、ま、こんなところか。単純に歩いたり走ったりするアニメーションを繰り返し繰り返し見る。
 例としては、フライシャー『ガリバー旅行記』、佐藤雅彦研究室『study♯33b』、シュヴィッツゲベル『遠近法』が挙げられていた。最初の作品では、ガリヴァーロトスコープの動き、小人が従来の手による想像力=創造力あふれる動きで同一の時空間内で歩くもの。比較例としては面白い。
 個人的な関心から言えば、現在心霊映画の機械的な歩き方映像を考えているだけに、その真逆の、滑らかなディズニー的コミカルな歩行とこれとは別の滑らかなただ歩いているだけの少々気味悪い過剰で簡素な歩行とが、何かに転用できないかとか考えてみる。

■影像論

A Short History of the Shadow (Essays in Art and Culture)

A Short History of the Shadow (Essays in Art and Culture)

をようやく購入。『西洋美術研究』誌第九号でも宮下誠さんによる切れのある書評が載っている。正直ストイキタはあまり手をつける気はしなかったのだが、第3章のスティーグリッツやケルテスの話、第6章のマレーヴィチの話、デュシャンの話、第7章のボルタンスキーの話――そういえば、彼は写真を影であるといい、また先日見た作品は低い照明の揺れる影のなか窓を塗りつぶして漆黒の鏡と化した仕掛けを用いていた――、ボイスの話をうかがってみると、どうやら写真起源論のさまざまな可能性があくまでも美術を軸としての話ではあるが、切り出されていることが分かる。後期の講読候補に入れる。

■つまり報告4――色をさし、色をぬく――


 笑わせてくれる。プレイボーイ風のヌードグラビアのモデルの肌やタイム誌などの表紙の国家元首のアイコンがひたすらマジックでタトゥーを描き込まれる。それだけ。たぶん今回唯一のポリティカル&セクシャルな側面を残した作品。教室の後方の緑地の掲示板に無造作に貼ってあるのもナイス。同じ作家の他の作品は建築内壁にタトゥーをほどこしたものもあるが、こちらのほうが随分垢抜けている。残念ながら見逃したが脱皮する家など見れば、「彫る」引き算と足し算という見出しもたったかもしれないと思う。
 さて、四回目、これで最終報告。たぶん誰でも思いつくキーワード、光と色。
 波長の長い光が目に染みこむレストランやその逆のトイレ(農舞台)、曇天の隙間からのぞく青空に吸い込まれていく脱色途上の洗濯物たち、脱色されて映像を錯覚させる緞帳、ノスタルジアを書きたてる赤色光の電灯、つめたく青い光を床から放つボルタンスキーの蛍光灯、プロジェクタから放射される青い光、死体写真と化した裕木奈江を包む青い光、そしてそうしたものを総集編のように見せるタレルの各種光のデパート。

 柔らかく浸透する光や硬く照り返す光、光を透過させて屈折させるガラス、みもふたもなく光をはねかえす壁、光をためる家屋、光を吸い込む戸口、そんな光の扱いかたが作品の差になったような気もする。ただ箱や田園に作品を置けばいいというものでもない。
 最後に一点、光ということで言えば、千葉正也の作品は面白かった。光とパノラマ=ステレオ効果によって静止した絵画が不気味に鼓動を打つような奇妙な感覚が残った。

以上、もう雑用雪崩が起きてきたので、妻有報告はここまでにしておきます。数十作品しか見ていないので見漏らしたものも多数あるし、ほとんど作品のことを書いていないではないかというツッコミもあるとは思いますが、これにて終了。