デジタル写真のなかのもの写真論

■きもかわベティ

BETTY BOOP Vol.1 [DVD]

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昨日サジェスチョンを受けたのでこれは注文。アニメーションの歩み収集作業。
そういえば初期ベティはきもかわでもあった。そういえば、id:kaerusanの御自宅できもかわいいステップを踏んで踊るベティを見たことがある。

■デジタル写真論/もの写真論
『写真、もの、歴史』に収められたサスーン「デジタル複製の時代における写真の物質性」を読む。
 この論文の概要は、以下の通り。

 デジタル・コレクションなるものが、数多くの制度機関で作られている。それはさまざまな写真(およびその他の所蔵品の)コレクションをデジタル写真としてウェブ化していく作業である。収蔵品への容易なアクセス可能性、保存可能性の増大、たしかにデジタル複製技術はデモクラティックな過程を推し進めているかのように見える。各種のイメージアーカイヴも同様である。しかし、ここではオリジナルの写真のデジタル化において失われていくもの、写真に基づく各種研究において見失われていくものについての議論がほとんど行われていない。デジタル化は技術的過程であると同時に文化的過程でもあるのだ。
 デジタル化によって従来の写真はただその物質的基盤を変更しただけにすぎないように見える。イメージのコンテンツをみるための中立で透明な像。しかしそのように思いなさせているのは、写真が属している言説空間ゆえなのであった(タッグ)。デジタル化によって失われるもの、見えなくさせられるものは、写真をめぐる三つの特徴――写真というものの物質性、オリジナルの写真という概念、写真の意味のオリジン――を尺度にすることで明瞭になるのではないか。
 写真は写真のサイズや焦点の合わせ方、表面の繊細な光と影の連続的関係、ネガや紙の表裏から製作の情報を知らせるし、さらには、加えられた修整やキャプション、裏の書き込みや損傷部分までも写真の後の生を詳述する情報になる。デジタル化によって、多様な形態をした写真は基準化されていく。触覚性、不透明性、ボリュームをそなえたこの世の存在(バッチェン)が、決まったサイズ、質、調性の幅におさまるものへと一次元化されるのである。ウェブ上でいわばそれは、つかのまのエーテルのような存在=霊になる。
 こうしたシフトの結果、デジタル化においては、イメージのコンテンツへと注意は集中され、より広範囲な普遍的イメージ一覧を作成する傾向が強くなる。ここには写真の意味を形成していた製作、使用、収集、保存にかかわったコンテクストから写真は切り離され、写真コレクションは、セクラが批判的に述べる意味での「クリアリングハウス」(セクラ)や「コレクション」と化す。デジタル化される写真の選択の原理も特徴的である。美的な写真が選択され、劣化した写真、処理が未決の分類困難な写真が捨象される。こうしてデジタル・コレクションにおける選択原理は、保存収集の言説空間から市場という言説空間へのイメージの移行を余儀なくさせる。ショーウィンドウ化するスクリーン。
 ウェブサイト化されたそうした例に挙げられるのは、ピクチュア・オーストラリアである。このサイトのサービスは、複数のオーストラリアに関わる主題のイメージ・コレクションの横断検索である。同種のこうしたサイトと同様、顕著なのは、サムネイル大の画像がグリッド窓状に集まったディスプレイ、最小限のキャプション、イメージ個々の遊離化であり、その拡大は、イメージからの距離を保持したまま、行うことができる。
 これに抗するモデルとしてアーカイヴ(セクーラ)を挙げることができる。それは、コンテクストと写真、認識とその権力の関係する構造をドキュメンテーション作業に含みこんだ情報の収蔵体のことである。こうしたアーカイヴ的な側面をウェブサイトの現今の基準化に組み込んでいくための何らかの規準が必要である。
 これが概要。もの写真の論集でのデジタル写真論であれば当然と言えば当然の結論。
 セクーラのアーカイヴが私的公的圏域を同時に含みこむこと、ウェブサイトの問題を一元化しすぎていること、他にもいくつか問題はある。しかし、一般的でまっとうなデジタル写真論であるし、デジタル技術の可能性一辺倒の議論を補う論文だとは思う。
 次は、写真アーカイヴのなかの「幽霊」写真的議論を探す。このひねりが欠けている。