クローンとしての写真、遺伝子工学としての複製

■デジタル写真論の中のもの(写真)論
 ということで、もうひとつのデジタル・コレクションを読む。昨日のサスーンも引用を少ししているバッチェン、いつも挙げるこの論集から。
  Each Wild Idea: Writing, Photography, History (The MIT Press)
 タイトルはPhotogenics。フォトジェニックという言葉が写真写りがよいという一般的意味を持つのに対して、それにSを追加することで議論はめまぐるしくなる。

以下概要。
 1996年コービス社(www.corbis.com)がアンセル・アダムスの電子的複製権を獲得したことが公表された。現在70万枚に達する数のイメージを世界中の制度機関から次々とそのデータ・バンクに加算していく同社は、ウェブサイト、CD-ROMを介して、その使用権を顧客に販売することを目的にしている。こうした複製への、複製の権利へのあくなき追求は、コミュニケーション、エンタテインメント、コンピュータ産業が互いに合併して形成する多国籍的な巨大な一元的市場の形成に対応してのことである――その反応のあらわれのひとつがインターネットであり、先に挙げたイメージのコレクションの形成の試みである。
 電子的複製市場の支配、これによって、コービス社は、「歴史」という一般には素朴に公共のリソースとみなされているものへの統御力を同時に獲得する。事実、同社の目的は人類の歴史を通じての経験全体を手中にすることであるとまでいう。コービス社は、私たち自身の、私たちの文化についての自身の記憶を複製する権利を販売することになるのである。このイメージ・コレクションはさまざまな商業的な用途に応じて検索可能であり、そのつど鮮やかな複製を供給してくれる。いわば人間の経験は商業的な写真という羊膜に包まれるようにその羊水のなかで浮遊しているかのようなのである。
 しかし、興味深いことに、ビル・ゲイツによれば、彼の関心は写真の蓄積にはないという。むしろ写真のデータの総体的なフローを統御することが彼の関心にはある。
ここでアダムズの写真について考えてみよう。たしかに顧客は同社からアダムズのある写真の電子複製使用権を得る。しかしその販売の目的は、「楽譜」に対する「演奏」権ではない。むしろ、遺伝子工学におけるクローンのように、デジタル化を通じてのコピーとオリジナルとのまったき一致ということが同社のもくろんでいることなのである。たしかに、注文におうじて遺伝子コードからクローンされる同一のイメージ、それは何度作り出されても同一のものであるように思える。写真遺伝子工学(photogenics)、バッチェンはとりあえずこう呼ぶ。
 しかし、こうした試みに、当のアダムズの『月の出』をつきつけてみると、事態は別の見え方をしはじめる。この写真は彼のゾーンシステムの初期の所産であり、彼は1941年から同じネガを用いて少なくとも1万3千枚のオリジナルプリントを作成しているのである。言い換えれば、ある写真の同一性全体を保証してくれるような起源、つまり一枚のネガ,プリントはどこにも存在せず、むしろ、写真の同一性は各々がその他のものを参照させるひと連なりの動きのなかのもろもろの差異のなかにあるとしかいいようがない。
写真の同一性と差異は、クローン化の従う論理と類比的に考えることができる。クローンとは、未受精卵に「分化させた〔differentiated〕」ある有機体のDNAのサンプルを注入してもうひとつの有機体をコピーすることである。もっともそのコピーはつねに同一のものではなく差異を帯びたものである――クローンは本体よりも若い等――。自らを差異化し、分化させることによって生み出される複合的な同一性、同一で異なるもの、それがずれた増殖や複製の契機になりうる。コービス社の電子複製ビジネスの皮肉は、ここにある――フォトジェニックスの(非)論理に従っていること――。もちろんビルはそんなことは問題にもしていないが。
その後、バッチェンの議論は、ありとあらゆるイメージアーカイブをサーフするものが陥っていく時間的、空間的論理に言及し(無時間的な非空間的な現前)、さらにはこうした複製の論理は別に写真のデジタル化にとどまるものではないことの指摘へと及んでいく。ヒトゲノム計画、遺伝子操作された家畜や農作物、それらが示しているのは、データの蒸留や交換のエコノミーであり、コービス社が試みているのはここに電子的なイメージのデータの交換のエコノミーを参与させることなのである。現実と表象、オリジナルとコピー、自然と文化というよりも、一連のデジタルコードや電子的信号の布置、それがイメージおよび他のものの存在や外見や意義を決定することになる。私たちの文化を規定しているものはそうした流れや交換、複製やその消費なのである。このようにいつものようにバッチェンはしめくくる。
 バッチェンのいつもの議論ではあるし、おとしどころが逃げどころになっている観は否定できない。しかし、写真を起源に拘束しないということ、写真のもの性自体がある再考を促されていること、ウェブサイトやインターネット上の非空間=非時間でのイメージの可能性を測定するための道具を呈示していること、そうした点では参考になる議論である。
 そして彼の心霊写真論もそうした写真の現在の存在を踏まえたうえで開始されるのである。これはまたの機会に。

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