アルバムの運動

■影のうた、電話うた
ミクシで書いている電話話ついでに電話CMのうたを集めている。
そのひとつ『ぼくと影』。NTTドコモのCM歌。聞きようによっては、少しこわい。こわかわ電話歌。

■アルバムの動き
 もの写真論の一環で、以下購入。表紙の表示されないアクセサリーものがとくに興味を引く。
 Cine Cameras (Shire Library) Photographic Accessories 1890-1970 (Shire Library) Cameras in Disguise (Shire Library)

 もの写真論のなかでは、アルバムにも触れねばなるまい。Hirschの書を久々に引っ張り出す。これはまた面白ければ紹介する。写真美術館でも『ファミリー・アルバム』という図録がある。
 Family Frames: Photography, Narrative, and Postmemory The Familial Gaze
 その前にバッチェンの議論を参照してみる。いつものEach Wild Ideaのヴァナフォトの章である。

 もの写真のなかには、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプなどの肖像が寄せ集められて一種の壁面彫刻化しているものがある。ひとつのフレームや細かに分かれた格子状のフレームに写真が配されることで、写真は家族的な系譜へのその所属を示す。しかも個々の写真ではなく、この格子化による再配置によって可能になるのが物語的構造なのであるという。それは前アルバム的な実践だがアルバムにもつながる実践とみなすこともできる。
 アルバムに目を移せば、ここでも以上に述べたような物語る意図が具体化されている。
他の「もの写真」と同様、アルバムも触覚性を強く喚起する。浮き出し模様になった革の表紙、それを机や膝の上に置いたり、掌で支えながら捲る動作――ちなみに本の形での写真の受容は時代をかなり遡るものである。例えば、名刺判写真も、本の形で集積され、並べられページをめくって享受されていた――。現在のアルバムも、ふわふわしたあの触感に包まれている。ともかくアルバムの多くは、家族の単位を再確認させ、今ここにはいない子どもや近親者たちの代替物としての写真をとりまとめ、物語る「もの」であった、そこには触覚を刺激する要素がつねにともなわれていた。
 しかもアルバムは、ただ本の形態を採っているだけではなかった。それを飾る台がそなわっていて、場合によっては背後の鏡と一体となって、観者がページを捲るとともに、鏡の上の自身の像を確認するものもあったというし、ある種祭壇のようになった場所に設置される類のアルバムもあったという――重厚な中世の時祷書や聖書のようなアルバム――。そのバリエーションは各家庭のアルバムの所有者の数だけあったそうである。こうした複数の見方、呈示の仕方も含めて、変幻自在な動的な見方、それがアルバムの見方であった。静止した写真がこうした文字通り動かされるとともに、ある物語へ向けて運動を始める。
 あるいは、機械的に正確な客観的過去の像という写真の性質とは対照的に、その縁に施された書き込みやフレームによって、被写体と結びついた欲求や夢想へと写真の注意を促す点も注目すべきだろう。そして写真は思い出を喚起する他のものとコラージュされてページの面を構成する場合もある。さらには文字の書き込みやそこでの被写体の呼称も重要であるし、アルバムの被写体がそうした家族に属する物語りのなかのどこで途切れるのかという問題も重要である――あれだけ多かった子どもの写真がその反抗期を迎えて数少なくなり、彼らが大学に入ると欠落し、ふたたび姿を現すのは家庭をもって孫をともなってからのことになる――。
 こうした複数枚の写真による物語化は、各々その写真が撮影された時代の社会的集団の編成という文脈にひきつけてひとまず話は組み立てられるだろう。あるいはそこでは絵画的慣習と写真との連続性と非連続性もトピックになるだろう。
 しかし私が関心があるのは、その物語のある種のパロディであるプリクラ写真実践や、現在の写真における私のありかたの微妙さでもある。
 以上、アルバムメモ。