写真の手分け

■電話うた
電話うたのなかで結構ヘヴィなもの。
中島みゆき『あした』。電話がうたわれている訳ではないが、1990年頃に電話CMで繰り返しかかったうた。若林氏の分析によれば、とくに最後の連では、単一な自己における内的な他者性への分裂が垣間見られ、なおかつ離脱した裸形の身体が先鋭化するという。
…もうひとつ電話うた。よく耳にする『ドコモダケのうた』。
ドコモダケのうた
歌詞を見ると結構凄い。電話コミュニケーションの非場所性/非時間性がうたわれ、夢のように深い催眠状態からさめて記憶喪失になっているドコモダケがいる。ドコモダケとは電話に陥った私たち自身のことかもしれない。試聴はここで

■手写真
 Speaking With Hands: Photographs From The Buhl Collection
 2004年にグッゲンハイムで開催されたブール・コレクション展をめくる。
 このコレクションは、写真を写真史全体にまたがる手に関連した写真1万枚を集積したものである。図録は、科学写真やジャーナリズム写真から芸術写真まで、有名な写真家の手によるものから無名の撮影者によるものまで、多種多様な豊富な写真図版に、四本のエッセイ(論文)もつけられており、写真と手という問題を考えるうえで貴重な資料のひとつになる。

 そのひとつ、ブレッシングの論文から簡単にポイントを引き出しておく。
 まずコレクターにとっては、手の写真は、写真そのものの獲得や所有の身振りの象徴になっている。さらに彼の経歴を穿てば――ブール自身が慈善事業も積極的に行っており、ホームレスの人々に技術教育の機会を与えて雇用を獲得する機会を見いだす手助けをしていた――、彼にとって手は道具として労働にかかわり、その教育を支持し、手助けする手の象徴にもなっている。
 また写真論から考えれば、インデックス記号になる手――何かの存在を指し示す手。例えば指紋、署名、人差し指での指示――は、写真のインデックス性を被写体によって間接的直接的に示すものになる。フォトグラムの例に手を用いたものがいかに多いかもそうした事態をよく物語っている。あるいは精神分析から考えれば、身体の断片、とくにクロッピングされた手が去勢不安の象徴としての不気味なものを示していること、あるいはフェティッシュと化していること、これが、写真のそもそもの切り取りと手が密接な関係にあることをもうかがわせる。
 ブレッシングは、上記の観点を含めた6つの視点のもとに手写真を分け(手分け)、「なぜ手の写真なのか」という問題を同時に考察している。

・証拠としての手
 科学的な記録や証明としての写真は、写真史の初期から存在した。そしてそこには手を撮影した写真の例が多いことも確かである。トルボットによるバイロンの手書き文字のコンタクトプリント、マイブリッジの手の運動を捉えた一連の写真、犯罪者の身体(手)を分割し記録した司法写真、そうした写真が前提にしていたのは写真の真正性、写真と現実との真正な関係だった。人の手の周囲の霊的オーラを撮影するといういささか疑わしい疑似科学的試み、それもこの真正性に基づいている。交霊会での霊(媒)の手の写真やヒステリー患者の表情豊かな手の写真も同様である。――もちろん手の跡による読みは、現在では、指紋鑑定、疑わしいものとしては筆跡鑑定学や手相学が残っているが――20世紀初頭に頂点を迎えて衰退した手の跡の跡、証拠の証拠、それが手写真の豊富さのひとつの理由になっている。
 もちろんここに後の時代のフルクサスのFilliou『ハンド・ショウ』(1967)のような変化球や、70年代のコンセプチュアルアートによるフラットで何の変哲もない手や指の写真の記録をくわえてみることができる。表現の由来する芸術家の手をわざわざ前景化する=撮影することで手と写真の真正性の重合をずらしたり、疑問に付すのである。

・操作〔マニピュレート〕される手
・一時性と身振りのレトリック
長いのでこれは翌日の欄へ。