写真の手先と小手先

■電話うた
 Music
 コーネリアスの『Gum』。ボーダフォンのCMでかかっていた曲。歌詞はこちら(Gumをクリックする)。解体された歌詞についてはすでに紹介がある。この歌、左からア段の音、左からそれを単語にする二語三語の音が交互に明滅する音のループになっている。よく考えるとケータイメールの文字変換に近い。試聴はここ
 言葉の遊びや言葉の分解ということでは、やはり電話CMのこれ。
 COLTEMONIKHA
ほぼ崩壊した支離滅裂な英語歌詞と日本語歌詞が対応している。歌詞はここ試聴はここ空耳アワー的電話うた。伝わる喜びを一面で支えていた語の意味は実は無意味であって分離した音の霊が浮遊するという電話うた。
 
サブカル対談
このあいだあった集中講義の最後にやった対談について、id:shirimeくんのとこであるような率直な感想は、もっといろいろ聞いてみたいところ。仮想的にサブカル権威者になってサブカルイデアリズム論とかサブカルリアリズム論とかしてもいいけど、もう少し意見を書いてもらうと参考になります。これはよろしく。

■手写真つづき。
・操作〔マニピュレート〕される手:フォトグラム
 カメラなしで撮影された、つまり「手製」の写真がフォトグラムである。さらにフォトグラムは、手を被写体としていることが多い。手は、暗室で作業を行う手でもあり、芸術家の創造性を示す象徴――現実の機械的なコピーという批判を制止する手――ともなったからである。あるいはモダニズム写真において、極端なクロッピングやクロースアップを施された手写真も多い。これも同じような事情による。

ブレッシングが少しだけ言及する誘われる手の話はもっと展開してもいい。子どもたちがコピー機を見るとすぐに手をかざす身振りに似て、暗室でのフォトグラム作成作業をする者は、しばしば手を誘われたのであるという説明である。19世紀にもX線写真を含め、手の写真は多い。それは「手」軽であると同時に、手が誘われる、そんな側面ももっていたのではないか。手は操作するとともに誘われ操作される。手先になること。

・一時性と身振りのレトリック
 写真の特性のひとつは、時間を引きとめ、瞬間を捕らえ、静止させる〔hold it still〕ことにある。露光時間の短縮によって対象の運動や生を捉える技術の成果、そのひとつが手の運動の表象であり、手による身振りのレトリックの記録であった。文章から切り取られてきた語のように身振りする手の写真は、その運動の速さや束の間の位置によってその瞬間の強度を伝える。トロツキーの演説写真、ロバート・フランクによる老人の写真、ヘレン・レヴィットによる子どもたちの肖像。

 たしかに写真以前にすでに、手による身振りの意味は文学や芸術でコード化されていた。古代の弁論術、ルネサンスにおける普遍的言語としての手の身振り、宗教的儀礼の身振り、演劇やパントマイムやバレーでの身振り、手話の身振り一覧表、戦争や狩での沈黙のうちに交わされる手のサイン、19世紀末に画家のために作成された身振り一覧写真(例えば上品な身振りの手の一覧写真)、そのコードはそのつどのイデオロギーにしたがっており、写真においてはそれが二重写しになっている。クルーガーの手写真はそうした例。手先を見分けること。

ポートレートとしての断片
手の写真は被写体全身のメトニミーになる。部分がその全体を特徴づけるのである。手の写真は、その行為やその用法へ向かうベクトルをもつ、とくに被写体が匿名の手の写真の場合、その手の読みは誰の手かということよりも、その動作の意味、その手に表れる年齢、ジェンダーエスニシティへと向かう。しかし、そうした読みは多かれ少なかれイデオロギー的な方向付けをそもそも帯びていることも確かである。例えば、労働者の手を示すドロシア・ラングの写真、クルツィスの密集する労働者の連帯を示す手のモンタージュ写真がある。そして(被写体が既知の場合は、、、これは省略。)
面白いのは、肖像画との比較である。肖像画において手まで明瞭に描くことはしばしば「手」のかかることであり、「手」数料を別に請求されたという。写真の進展は手の表象を容易にした。そしてこの、表象に入り込んだ手というディテイル、それが写真の存在論、写真と世界とのつながりを支えることにもなった。これは小手先ですむこと。

このセクションはもうひとつ印象派についてのノクリンの論があげられている。偶発的で断片化した近代的生活の表象として、断片としての身体は写真においても頻繁に扱われることになったという主旨。これはもう少し展開すべき議論。近代化にともなう手と眼の分離は、表象の変動を引き起こし、痙攣した手で断片的な手を描くことで目との回路をかろうじて保とうとしたのだが、それを手写真が…という話もできそうな気がする。
 
 残る項目は、愛するものの抱擁と不気味なもの。明日の欄で。
 この論文(エッセイ)、羅列的で結論はぐずぐずだけれども、手写真の複数の意味のコードが簡潔におさえられている点が有用なのかもしれない。