手を結ぶ/手を切ること

■電話うた
  アメリカ大好き!
 今田耕司KOJI1200で歌っていたことはあまり知られてない。そのKOJI1200の『ラヴコネクション〜ジョイとコウジの国際電話』が電話うた。歌詞も試聴もなし。この歌で今田は、電話から突如流れてきた男性コーラスにお前ら「誰や」とすごみ、ジョイの歌のサビ部分だけに「そうや」と相槌をうち、残りは「だからわからへんのや」と答える。それだけ。しかしそれで会話が成り立つ。電「話」はそういう声の肌理の反復でじゅうぶん成り立つという電話うた。
 声のみが重要ということでは、やはりヘヴィな松任谷ものがある――『many is the time』。試聴はここ歌詞はここ
 A GIRL IN SUMMER
 波うち際に来ていろいろあって不在のものを想うが、そこでは声だけが希求される。アルバム全体が幻の虹や伝説の波にのまれる時間錯誤うた。強烈。


■手写真――抱く手と切断された手――
残り2項目。
・愛するものたちの抱擁
 愛する者は互いに、体の一部を見てもそれが誰のものかすぐに分かる。身体の親密なトポグラフィを記憶する力、それを愛は与える。手の写真はそうした親密さを喚起するよう促すことが多い。こうした手写真は、愛する者相互の理解や肉体的/感情的なつながりを示す比喩にもなる。例えば子どもを抱く大人の手の写真、その接触は私たち自身の経験に触れてくる。しかし接触はつかの間のものである。その抱擁を永続化したいという欲求、それが手の写真というフェティシズムにつながっていくのだ。。。いささかロマンティックな記述。
 例として挙げられている、ラルフ・ギブソンの右手でカメラをもち、左手で被写体と手を絡めて撮影している写真、これはこうした隔たりやつかの間の性質を越えようとする手の試みなのかもしれない。

・不気味なもの
 去勢不安の説明として手写真は論じられている。あるいはフェティッシュとしての手。本文はいつものフロイトの説の概説にすぎない。
 面白いのは、映画のモチーフとしての切断された手が列挙されているところ。
 これは明日の欄に。