浮遊する手

■電話うた
かわりだね電話うた。
「魔法戦隊マジレンジャー」主題歌シングル
のエンディング『呪文降臨』。マジマジ連呼する主題歌も含め、話の展開や設定などのあらゆる面で、戦隊シリーズではとくに際立ったシリーズだった(詳しくはウィキペディアの項を参照)。歌詞にはケータイ(電話)うたの必須シチュエーションである夜と月と森(海)が配されている。以前も書いたが、ケータイ=変身=別世界からの返信アイテムとなっているのが最近のヒーローもの(ヒロインもの)の常套手段。「lonely」な僕とわたしがケータイをもって呪文を唱えて「闇の扉」を開き、「ひとつだけではない」世界へ向かう、そんな電話うた。同じように異界との通信を描いたのは、
地獄少女 1 [DVD]
だが、その主題歌『逆さまの蝶』は歌詞にメールと一言しか出てこないがやはり広義の電話うた。不確実でクレイジーな雨の流れのなかでの不安を歌う電話うた。

■不気味の手
 ブール・コレクション展のサイトはここ。少しだけ写真がアップされている。そのカタログのなかのHovingの論文をざっと読む。シュルレアリスムにおけるさまざまな手の写真をその思想を背景にしながら簡単に解説したもの。例えば、
 1924年の『シュルレアリスム宣言』には、マン・レイの《無題》が掲載されている。木製の椅子の背に二つの手が浮遊している奇妙なイメージ、そこでは無生物が生をもち、馴染みの場所が突如異質なものに転換し、生あるものが幽霊的なものとして浮遊する。シュルレアリスムの写真において、とくに切断された手は独立した位置を占めており、手はフレームによって切り取られるとともに、通常の物理的な文脈から分離されて、もうひとつの現実を具体的に示しているのである云々。。。
 ブルトンによる手の言及も拾い集められる――『シュルレアリスム宣言』での文学的想像力の解放の手段としての手や身体の断片化、マックス・エルンストについての文章での自動書記と写真との関係、スピリチュアリスムとの関係、『溶ける魚』での幻想的手の出現。人間を動物から区別する身体部位としての手、合理的な思考の担い手としての手、そうした手を身体から分離し、無意識への通路にするということ。他にもシュルレアリスムの手写真の特色として、半透明性、性的な意味合い、二重化、アンフォルム、、、そうしたキーワードを挙げ、一般的概説をする論文。…フォスターやクラウスをひいてはいるのだが手の肌理にはほとんど言及がないのが残念なところ。
 論として読みたいところに手が届かない。

サブカル対談その後
 了解。途中参加したので最初の前提がよく分からなかったのですが…私が言っていたのは、すべてサブカル化しているじゃないか、ということでした。ハイ&ローの図式そのものが失効してしまっている。ハイだと自認している専門分化した諸学問もある意味でネタ消費にすぎないのではないか。もちろんこれはすごく斜な極論ですが。
 確認ですが、「権威を与える」の意味は、もうそれはすでに終わったものなのだから「化石」とみなして制度化してしまえばいいじゃないか、あるいは、そうした過去の現象やその言説の根幹にあった複数の力線からなる力動性についてもはや語ることは無益なんじゃないかということでしょうか。それが正直、疑問です。