ケータイ写真論

神戸で会議。
ついでに『呪怨』コピーしようとしたらビデオ機が壊れる。
怖くないけど怖いかもしれない。

■ケータイされる物語
小池さんからケータイ写真論を送っていただく。

「ケータイされる「物語」――携帯電話における写真――」

面白かった。簡単にまとめておこう。
 通常のカメラと使い分けられ、メモや簡単な記録として利用されもするし、デジタル万引きにも流用され、はては盗撮にまでも転用されるケータイの写真。
 この写真の特徴は、第一にそれを他の人と即座に共有することにある。第二にそのリアルタイムでの写真の共有は、これまでの写真論で言われていた死や喪の時間性を取り払ってしまう。とはいえそれは、TVのリアルタイムとは少し違う。ケータイのパーソナル性、一対一というメディアの特性は、個人の身体にぴったりとはりついた現在形にあり、あくまでもそうした身近にとどまりつづけるからである。「半ば身体化したようなモノ」として所有されたケータイ。
 それゆえ――第三に――ケータイを使用する際の写真へのひとびとの接触の仕方は、見ることが撮ること、撮ることが見ること的な同期化、言いかえれば写真行為の共有とでもよぶべきものであり、そこではメッセージの内容よりも像の存在を介しての交話自体が重要になる。
 このような写真も含んだパーソナルな情報の詰まった箱としてのケータイは、つねに私によって身にケータイされ、わたしの「物語」を読みとるデータを構成する。この写真行為の共有感覚と身近性、それがある種の新たなプンクトゥムとなっているのではないか。

…こんな感じで読みました。
 今考えているケータイ心霊写真論と相通ずるところがあって面白かった。個人的観点からすれば、見ると撮るのあの微妙なはりつきかた、液晶画面を介しての撮ってる時のすでに見ている感、見ているときの撮っている感の説明はここにあるのだろうし、ケータイが身近データベースの小箱となる由縁もその通りと思う。そういう意味でケータイ写真論に必須の論考。

■見られていること
 もうひとつふたつケータイ心霊写真的観点を付け加えれば、、、
 ケータイは鏡でもあり、返信=変身メディアでもある。コンパクトのように開き、私は鏡を見て何かになるそういうアイテム。でも私が見ていなくても向こうは見ている、何かが見ているメディア。
 そもそもケータイのみならず電子メディアというのは、向こうから何かが見ている、それを目をあげて見返すと、こちらの身体がその目にひっさらわれていく、という心霊映画的視点もある。それは実は私の分離した目であり声である、そして、、、
という『リング』のビデオ&電話や『回路』のPC画面&『呪怨』の実は私だった的な怖さもケータイにはある。そう考えると、ケータイをデコるのはそういうもっていかれないためのお守りかもしれない。もの写真論の可能性。
仕事柄、ついそういうことを考える。オチを早く書かねば。