波打つ記憶

ようやく戻ってくる。

■シンポ
記憶の体制と題されたシンポジウムを聞く。豪華な顔ぶれ。
何度か参照されたテクスト。
Present Pasts: Urban Palimpsests and the Politics of Memory (Cultural Memory in the Present)
After the Great Divide以降,ヒュイッセンのテクストは追っていなかったので、これともうひとつTwilight Memoriesは注文しておく。

 70−80年代以降の記憶の語られ方=騙られ方、それに情動や身体をどうくみこみつつ、フロイト的方法の反復を回避しながら記憶を語る(語らない)=騙る(騙らない)ことができるのか、それが焦点だということが再確認できた。
 個人的には、シンポではあまり検討される余地のなかった問題、例えば、アーカイヴの媒質とかアーカイヴの複数性とか、写真、映画、TV、ヴィデオなどの複数のメディウムが重なりあい入れ子式になっていく記憶の伝達(伝達失敗)の問題とか、もっと掘り下げて考えたいと思った。あるいはディック的問題に対してリンチ的問題を考えるというのも宿題。

ヴィオラ
 直、関西にも巡回する予定なのだがあの負の気の漂う磁場森美術館で見ておこうと思い、ヴィオラ展にいく。これまで彼の政治的な作品しか知らず、最近のスタジオ的造りの宗教的においの漂う無音作品は正直初めて見た。会場でも手に入るヴィオラのDVDを購入。

クロッシング》は燃える男と冷やされる男の表裏の一枚作品。映像そのものの妙な大きさにくわえて、表と裏で相互に視線を映像で塞がれている観客の対照的な表情が面白い。燃える男の上昇する焔に赤く照らし出された上昇する眼差しと真剣な面持ち、冷やされる男の青い光に照らされる頬の筋肉が少しだけあがった人びとの表情、それを交互に見る。《オブザーバンス》ではひたすら見下ろす人びとの眼差しのみの作品。《天と地》は脆いブラウン管がぎりぎりの距離で向き合わされた誕生と死との照り返しの作品。
 他にもミレニアムの天使、感情表現各種の祭壇画的作品、手の作品、等など。
 水面とその揺れる表面としての画面、低速と固定された無音の映像の表面で波打つ情動の起伏、透過する光と反射する光の使い分けと重複、フレームの形状とその上下感覚、ビデオ的記憶とフィルム的記憶、そんなキーワードが散らばっている。宗教的な色合いは濃い。ただしそこを差し引いてしまっても仕上げのクオリティは高い。

麻布十番で学生と雑誌社のひとで飯。連載の顔写真を飲み屋で撮られている。
スパイらしいポーズを頼まれる。スパイってポーズをとるのかは知らないが。

これが一日目。