WBCD

原稿書き。忙しい。
      
忙しいとこういう無意味なアイテムが欲しくなる。ダイナマイト四国。テーマ曲はボウイ。セコンドは仲居さん。得意技は肉離れ。
意味はない。


■WBのCD

ベンヤミンもので検索をしたら、朗読CDが何点か出ている。ベルリン幼年時代ものは音で聴いてみたい。音読するとまた違う読みもあるかもしれない。他には『子どもたちのための…』もある様子。ラジオ放送されていたもの。

■セクーラ小論2

「30年前、つまり初めて真剣に写真を撮りはじめた際に、私にとって写真メディアの卓越した魅力だったのは、その不可避的な社会的参照性、つまり写真による、社会的な諸制度、身振り、作法、諸関係の世界を記述する方法だったのである――もちろんそれは謎めいた仕方であるし、誤解を容易に招き寄せるものであるし、還元的でしばしば表層的な仕方ではあるのだが――。その当時写真は私に、後期モダニズムのあまりにも専門化され、秘教化された、自己参照的言説に対するオルタナティヴを与えてくれるように思えたのであった。」

 現在の芸術実践におけるセクーラの作品の明らかな「解読しづらさ」は、文化的な排除や省略のパラメーターを指し示すことになる
 第一に、ポスト産業社会における労働のイコノグラフィの不可能性に関わる問題、これにセクーラは関わっている。労働や生産の大部分がモダニズムの視覚文化において地政学的な周辺へと押しやられ、不可視のものになっている。 とくに現在の文脈にこのことは当てはまる。そこでは視覚文化が、広範な文化の受容の際にナルシシズム的区別や階級的差異の強化として役立っている一方で、――かりに「現実的なもの」の経験と関わっていたとしても――消費や商品化という普遍的な条件についてのアイロニカルな緩和剤として作用しているのである。
 第二に、彼の作品の解りづらさは、「批判的リアリズム」モデルへの彼のこだわりにある。このモデルは、バーギンがかつて述べたように、政治の意味作用に対してシニフィアンの政治を特権化する写真的意味作用の現今の定義への、構造的、記号論的な批判を彼に与えてくれるのである。セクーラはこう述べている。彼は

「具体的な生の状況の内部から、つまり諸々の利益関心や表象が公然とかつ激しく衝突する状況の内部から作品を構築しようとしたのである。私が製作物に抱く関心、そして対話を構成してくれるいかなる関心も、ある種のリアリズムの探求の一部になっている。このリアリズムは、現象や社会的事実のリアリズムではなく、むしろ、先進的な資本主義の支配下にあり、その支配に抗する日常的経験のリアリズムなのである。このリアリズムは伝統的なリアリズムをさかなでしようとする。カメラによって捉えられるエッセイ的な生の約束に対抗して、私はすでに記号に満ちた世界の内部から作業を行おうとしたのである」。

 こうした事情から、セクーラは、構造主義的な意味作用のみに妥当性を認める見方に批判を向け、「記号論的」な迂回の戦略に関して疑念を表明しているのである。そして現代の高級芸術の生産の諸慣習に慣れたアート・ワールドのオーディエンスたちが、彼の作品を解りづらいと見なすのもここに原因がある。セクーラの「批判的リアリズム」は、シミュラークルイデオロギーにも敵対するし、主観性についての精神分析的理論の特権化にも敵対する。またそれは、ポスト構造主義的な記号論の排他性にも批判を向け、左翼における美的言説で唱えられた伝統的なリアリズムのモデルにも批判の矛先を向けるのである。
 (以下続く)