顔出し写真の勢い

■ダイエット原稿
6月に行われたシンポの報告原稿をアップしました。
場所は本サイトのここ。当日のヒロくん(安田大サーカス)原稿を内山くんぐらいの量に絞ったものです。

■顔出し写真
 でいくら調べても出てこなかったが、「顔出し看板」「顔ハメ看板」で検索すると、次々と全国各地の顔出し看板がアーカイヴされている。顔出し看板展示館を筆頭に、顔ハメ一覧、さらにはコナン・ザ・グレート看板が強烈な素晴らしき顔出し看板の世界、ポンチハンターのカオダシクラブ顔写コーナーと続く。
 ざっと見てウケたのは不釣合いな身体の顔出し系である。
   
筋肉マン、コナンザグレート、レースクイーン。なかにはパチンコ屋で猪木にビンタしてもらえるものもある(拾ってきたサイトの皆さん最小限に縮小して引用していますが問題があればご連絡ください)。 
 顔出し看板を製作する新潟県柏崎市の会社もある。それはここ。お店の名前、越後もたい看板店にKOされてしまいそうになる。
数少ない出版物としては『全日本顔ハメ紀行』がある。

…でも顔ハメって、、、もっとよい表現はなかったのか。

■セクーラ小論3
 大部分の西欧ネオマルクス主義美学においても、再現(表象)のリアリズム的美学には距離が採られている。それは伝統的なリアリズム美学につきまとう数々の連想ゆえでもある。例えば、その一例にアドルノによる、歴史の表象のモダニズム的な禁止令がある。さらに最近の例では、ジェイムソンを挙げることもできる。ルカーチの遺産と真摯に取り組む最後のマルクス主義美学の理論家である彼は、再現表象、物語、リアリズムの禁止令を発している。現在におけるリアリズムの不可能性が歴史的に導きだされるのである。
 こうして考えてみると、セクーラのモダニズムのリアリズム的次元の諸側面を再構築しようとする試みは、信用のおけないものと見なされるかもしれない。しかし、セクーラが批判を向けているリアリズムは上記の二種のリアリズム禁止令への批判なのである。つまり、物語や再現表象についてのモダニズム的な禁止令、そしてリアリズムを復活させる事に関するマルクス主義的な自己批判的禁止のことである*1
 モダニズムの美学による写真の無効化の後に、これに抗して批判的リアリズムを再構築することにセクーラの企図は関わっている。このことは、「非芸術的」とみなされる写真実践に継続して彼が携わっていることからも、明らかであろう。例えば、フォトジャーナリズムや(アメリカの)ストリート写真、ドキュメンタリー写真がそうした写真実践である。
 もちろん60年代から70年代にかけてのポップ・アートがこうした写真実践からの引用を、日常生活の状況の「インデックス」あるいは「現実」的なものの「痕跡」として組み込もうとしたのではあるが、そうした引用が可能であったのは次のような条件に基づいてのことであった。
(以下続く)

*1:こうした旧来のリアリズムの立場とそれに対立するモダニズム的な立場との間にある典型的な事例が、フォトモンタージュである。前者の立場に寄れば、フォトモンタージュとは断片化した経験を美的に塗り固めてしまう、受動的支配やでアノミーという状況を容認してしまう。これに対して例えばアドルノは、ダダのモンタージュ美学へのこうした拒否を批判ている。両者の立場の差異は、意味作用という論点にある