秋だから奈良だから


■秋だから奈良だから
『美の巨人』で入江泰吉の回。秋だから奈良だからなのか、それを見る。
 古都を語る言説というプレテクストに、終戦直後と故郷への回帰というコンテクストが重ねあわされ、待つこと、撮りつづけること、幻視することという芸術家の営為という言説が加わり、茜色の写真一枚にすべてが収斂する、そういう語りであった。
 このシリーズ、木村伊兵衛の回も植田正治の回もある。写真家はいかに語られているかという定型を知るのにも役立つかもしれない。
 蒼猿氏、これはどうなのでしょう?

■Through The Optic of WB 
 Optic of Walter Benjamin, The De-, Dis-, Ex-, - Volume 3 (De-, Dis-, Ex-., Volume 3)
 ブクローによるワールブルク&リヒター&ベンヤミン論収録。
 たぶんこれはDeep Storageでの論文にベンヤミン考を付け加えたもの。
 論集自体は、しばしば彼の議論において看過されがちな芸術、建築を中心にした議論、つまりアーカイヴ、エスノグラフィ、ヒストリオグラフィについての議論にベンヤミン的光学を手法として焦点を合わせたものである。

■セクーラ小論4
 つまり、そうした引用の手法の前提とは、第一に、写真がその物語から引き出され、現実指示性と形式的慣習の破壊とのあいだに宙吊りにされたままであること、第二にその帰結として、モダニズムのパラメーターにしたがってそうした写真が美的な対象に変容させられてしまうこと、この二つである。非介入性、無関心のスペクタクル性、シニフィアンへの偏向。

 ポップアートが広告やフォトジャーナリズムやアマチュア写真というイメージ生産の共通したソースを、高級芸術の理想にたいする批判として採用することができたのにたいして、その10年後のセクーラのような芸術家が、フォトジャーナリズムやストリート写真の、現在における実際の位置やイデオロギー的機能を分析しようとしてそうした対象を探求する場合、そうした試みは、大部分、文化的に「解りづらい」ものになっているのである。ポップ・アートについてのセクーラの批判的な言葉が、こうした矛盾を明らかにしてくれている。また同時にそこでは、現代の芸術的生産の領野からの彼の慎重な距離のおき方が強調されているのである。

「ここでの戦略は、1960年代初頭にポップ・アートが開始し、確立した戦略に似ている。美的知識のある観者は、乖離した、アイロニカルで、侮蔑的な雰囲気でマス・カルチャーや「ポピュラー」カルチャーの制作物を検討するのである。ポップ・アートやその派生物にとって、洗練された観者の視はつねに、それに先行する劣った視との関係のなかで構築される。こうした受容様態が私には煩わしい点は、その密かなエリーティズムなのである。つまり、「優れた」観客の地位の暗黙の主張のことである。キッチュに対する恩着せがましく、ツーリズム的で、嘲笑的=批評的な姿勢が、高級文化を真正化するのに役立ち、そうした高級文化はしだいに、多くの側面において、とくにそのマーケティングや宣伝への依拠およびスター的地位への魅了という側面において、マス・カルチャーとほとんど区別がつかないものになってきているのだ」。

(以下続く)