写真の遅さと写真の変容


■写真の遅さと写真の拡大 
富士フィルムのCMサイト「PHOTO IS」編
 ここ二十年の多くのCMはこちら
 アルバムを捲ったり、回顧的なスライドショーをメインにすえた広告が最近少し目立つ。写真の遅さを強調するということか。

 しかし何よりも驚くのは、富士がサプリメント商品に着手していること。これは、一面では写真産業をもはや「現在形の写真」なるものが超え出てしまっていることを示している。しかし、もしかするとバッチェンならば、自然と文化の境界の地滑りの徴候が出ているなど論じるのかもしれない。写真はそもそも自然と文化の境界を超えてその実践と言説の地平を変容させるものだった、、、とか。どちらの読みもできる現象。

■Forget Me Not 2
Forget Me Not: Photography and Remembrance
 ジュリア・マーガレット・キャメロン撮影の《ムネモシュネー》と題された一枚の写真からこの本は話を始める。カメラから視線をはずし、虚空を凝視した、もの思いに沈んだ若い女性。その、葉に縁取られた頭部から垂れる長い髪。それを優しく撫でる右手。その手首にはビーズの環が着けられている。この小さな玉から成る腕輪は想起の際の助けになるものでもあった。キャメロンはこの写真で、あたかも写真そのものが記憶の一方法であることを示そうとしていたのかもしれない。
 写真は「記憶をもった鏡」である、オリヴァー・ウェンデル・ホームズが1859年にこう語って以来、私たちは記憶と写真を近しいものと見なしている。

 だから、19世紀の写真の被写体に、もの思いに沈んで写真を手にしたポーズをとっているものが多いという事実も、何ら驚くことではない。彼ら彼女たちは、カメラにまったく気づかない面持ちで写真を凝視し、時に頬杖をつきながら、深い思索に沈んでいる。そこでは撮影時にすでに不在の誰かのことを想起している。つまり被写体にとっては撮影されるという行為はある種の想起の行為だったのである。そして、そうした想起の主体として被写体が想起してもらうことを要請しているのである。

 こうしたポーズの別の形として閉じたダゲレオタイプのケースを手にして写っている写真も数が多い。被写体はケースの背や縁に手で触れつつこちらに視線を送っているのである。なぜケースの表面に触れることが要請されるのだろうか。
 
 ダゲレオタイプのケースの表面にはさまざまな浮き出し模様が施されている。写真を含めた全体が、金属、ガラス、木、布、革から構成される重みをもった物でもあった。ダゲレオタイプの受容にとって重要だったことは、こうした表面の肌理に触れることであり、そこでは視覚と触覚が絶えず折り重ねられ、内側と外側が折り重なってその知覚経験を構成していた。したがって先の被写体たちは、写真の中の写真に注意を喚起すると同時に、触れうる実在として、追憶の機能を果たす手になじむ堅固な物としての写真に注意を喚起していたのである。

 しかし、はたして19世紀に発明された写真は、当初からひとびとやことがらを想起することを促す媒体でありえたのであろうか? 記憶の妨げとなる、記憶の衰滅の要因となる写真への典型的な批判は、バルトやクラカウアーの洞察にもすでに認められる。彼らの言葉によれば、写真と記憶は真っ向から対立しているかに思えるのである。この疑問がさまざまなヴァナキュラー写真を議論する動機になる。
(以下続く)