抹消と遅さと想起

夕方大学。専修希望の学生の面接。集団面接というのをはじめてする。
皆々さんおつかれさまでした。胃が痛みました。

■Forget Me Not 3

 それはさておき、実際に記憶の媒体としてのヴァナキュラーな写真の例を具体的に考察していくことにする。例えば額に入れられ、顔料を上塗りされたティンタイプのたぐいがある。灰色の地からこちらを凝視する写真とも絵とも判断のつかない写真のことである。

 初期写真においては、最終的に被写体が生き生きとした姿で写っているためには、頭おさえや膝おさえなどによって身体を拘束し、あたかも死後硬直死体であるかのように、あるいは蝋人形のようにこわばって写ることが必要であった。このこわばりは、あとからの顔料で塗りくわえる工夫によってもやわらげられることはなかったのである。

 こうした写真は、一見するとはなはだ単調で、どれもこれも同じような表現を採っているかのように思える。顔料を塗り重ねたわりには依然としてこわばって仰々しい印象も与えている。しかしそれは、人生において一度ないし限られた回数の撮影の機会、しかもフォーマルな威厳ある面持ちの自身の提示という機会にはむしろ適していたという。

 写真に結びついたリアリズムからはずれてしまう写真肖像画、先のこわばった身体ばかりでなく、その背景や足元の柄すらも遠近法的には歪曲されている例もある。
 バッチェンは言う。「こうした肖像が魅力的なのは、私たちには見えないものゆえなのである。例えば、そうして見えなくなるものが写真なのである」と。
 写真という基層に施される、それを覆い隠したり抹消したりしてしまう加工、奥行きや模様を与えてしまう加筆、不自然なボリュームあるカーテンや豪華な敷物、背景に後退する列柱の廊下や中空に浮いた椅子の脚、それは何の変哲もないイメージをかえって独特の現われ方へと変容させる。あたかも羊皮紙のような重ね書き、あるいはその抹消、それがあってはじめてそのイメージを読むことができるようになるような抹消の繰り返しがここにはある。

 言い換えれば、その抹消の結果、写真は固有のものになり、それが呼び出す記憶が固有のものになる。特定の過去の時間に結びついたものというよりも、そこから切り離され、時間的空間的な係留点から外された被写体像、それがまずこうした例においては重要である。また、この脱時間/脱空間化にともない、加工によって生じる「遅さ」も重要であろう。瞬間の露光を表象する像、そこに追加される加工の時間、それゆえに最終的イメージを読みとる際の、瞬時にではない緩やかな間合いの時間、これが想起の強度を促してくれもするのである。

 しかし写真が想起をうながす方法は他にも数々ある。
 そうした事例をさらに見ていくことにしよう。
(以下続く)