エコーに花飾り


毎日新聞ニュースを見ていたらこんなのがあった。今年の命名ランキングである。

男児は1位「大翔(代表的な読みはひろと)」、2位「翔太」で、女児は1位「陽菜(同ひな)」、2位が「葵」。

世界のヤンキー化。そんな言葉が口をついて出てくる。
結構本気でヤンキー論は考えてしまう。


■エコーに花飾り
 写真アルバム販売サイトを検索。
 コクヨのスナップステーション
 写真を送って本にしてもらったり、ウェブ上で作成して製本のうえ届けてもらったりというサービスがある。思い出産業、脈々と息づいている。よく考えると、アルバムは文房具、カメラも文具化ないしは雑貨化しているのかもしれない。
ちなみにもの写真的なものもここにはある。
 
 左からストラップ、キーホルダー、ピンバッジ、私トランプ、私パズル。
 私が吊り下げられ、私が差し止められ、私がくられ、私が七並べされ、私が謎になる。

 また、エコー写真がこうしたアルバムの最初のページに来ることがある、そんな話は何度も聞いた。そういう例がこれ。超音波写真アルバムのページ。花飾りやフレームやリボンで可愛く科学写真を縁取る。
…「言葉にできない」が流れてきそうであった。

■Forget Me Not 4
そうした方法のひとつに、どのような写真であれそれを寄せ集め、ひとつの額縁のなかに収めるという方法がある。グリッド状に並べられた男性たち、あるいは女性たち、そうした制作物は、自明のことではあるが、同じ集団的同一性に自らが所属していることの表象であった。格子という非自然的で非模倣的な幾何学的秩序と、写真のリアリズムとの結びつき、それは一方で世界への窓を標榜しながらも、他方で見る私たちの世界と距離を置く境界画定を行っている写真=物である。グリッドはまた、明白な物語的構造をもそなえている。個々の写真では負いきれない物語を語る能力を喚起させる秩序。

 また、さまざまな写真をひとつの対象に寄せ集める欲望にはさまざまな形態がある。
 例えば以前もここで紹介した格子状の枕カバー。それはこの家族の成員の記憶を喚起する役割をしている。ここで注目すべきなのは、こうした記憶の媒体の製作方法が同時代の女性雑誌に掲載され、それがアーツアンドクラフツ運動にも結びつきながら、工芸的伝統と拡大する工業化とをつなげる役割を果たしていたということである。写真を用いた記念物、そこにはこうした文化的、社会的な複合性が潜んでいる。写真枕において過去と現在、機械製作と手による制作、古きものと新たなものとの境界は曖昧なものとなる。写真と縫い物との重なりにはこういう文脈を読むことができる。

 そして、写真枕の物質性、真っ直ぐな縫い目としわくちゃの角、写真に与えられる肌理、それが写真を触れうるもの、暖かなものに変容させ、思い出を喚起し、日常の家庭生活の中でそうした過去と現在とを共存させるのである。

 ここにも見られた写真における触覚の役割に注目することはヴァナキュラー写真を考えるうえで重要なことである。先の顔料の上塗りにおいてもイメージの表面に残され、その表面を活性化する筆のタッチの痕跡、それが視覚に並んで(文字通りの触覚ではないが視覚的な)触覚を写真の経験に持ち込むからである。そもそも写真に関しても、

(以下続く)