Forget Me Not Again

■ヴァナフォト資料本
バッチェンのあげる、従来の写真史に対するパレルゴンとしてのヴァナキュラー写真を扱った研究書。
案外手に入るものも多い。

History of Photography: Techniques and Equipment

History of Photography: Techniques and Equipment

Forgotten Marriage: The Painted Tintype & the Decorative Frame, 1860-1910 : A Lost Chapter in American Portraiture

Forgotten Marriage: The Painted Tintype & the Decorative Frame, 1860-1910 : A Lost Chapter in American Portraiture

Een Nieuwe Kunst Fotografie in De 19 Eeuw = A New Art Photography in the 19th Century

Een Nieuwe Kunst Fotografie in De 19 Eeuw = A New Art Photography in the 19th Century


■Forget Me Not 7の2
 久々にバッチェンの続き。

 アルバムの中にはテクストばかりでなく、視覚的な工夫の凝らされているものも多い。
アルビュメン・プリントとインクと水彩のコラージュ、シンメトリカルな配置など、そこにはトロンプルイユやルイス・キャロルの幻想的な話を思い起こさせるようなおびただしい数の多様な形式がある。写真の機械的な精確さは、このような工夫によって和らげられ、個人的なものとなって、友人たちや家族、そして彼らと結びついた願望や夢想へとささげられている。そのとき、私たちの注意は、写真の中央にというよりもむしろ、コラージュされた複数の写真の縁へと差し向けられる。写真のリアリズムが中断させられ、ページそのものの「いまここ」に写真は置かれるのである。

 たとえば、1860年代に由来する或る一家のアルバムは、156枚の写真が46のページに貼り付けられ、インクや水彩による絵で飾られている。木の実や木の葉が幾何学的にデザインされた木製の表紙、これが劇場の入り口になって、私たちはページ内の演目へ導かれ、場面であるページは表紙のデザインを反復しながら、さらにはイチゴやライチの絡み合った繊細なデザインを加え、イメージを縁取っている。家族の系譜を明瞭に強調するという意図のもと、それぞれの写真にはキャプションとして名前が付されている。
 図版として挙げられているその1ページ。ここには一族のおのおのの写真がコラージュされて、絨毯の上に配され、後方には赤いカーテンに枠どられた巨大な窓があり、その向こうには水平線に分割された海と空、海上の2艘の船が描かれている。他にも同じように家族の成員が暖炉を前に居間に並んだコラージュ写真、切り取られた男女の写真が海に漕ぎ出す船の上に乗せられているものなど、その空間の構築は多様である。

 なかでも道化師の衣装に身を包んだ男が、ニヤニヤと笑いながら11枚の家族それぞれの肖像写真を、種をまくように大地にばらまいているコラージュ写真のページは奇妙でこちらの目を強く惹く。もしかすると彼=道化師は、アルバムの製作者自身を表しているかもしれない。そして、まかれた写真=種が成長した結果を摘み取っているのが読者である私たちなのかもしれないのである。

 20世紀半ばにいたるまでこうした例は挙げられる。歌詞や楽譜、タバコの吸殻、赤い羽などが写真とともにコラージュされたアルバム、そこには匂いと手触りと音とともに写真を配置して、触れられるものとしての写真の可能性を引き出すような、特別まひとびとによってではなく、匿名のひとびとによる創造的な努力が眼にされる。社会的儀礼や個人的な夢想と思い出が触知可能な視覚的形式で表現されているのである。
(以下続く)