蝋としての写真

photographology2006-12-29


原稿8合目。

■POPPHOTOGRAPHICA
ボストン大のこの頁にもあがっている――ヴァナキュラー写真をコンセプトに組み入れた作品紹介――Popphotographicaのページを検索。鹿の足がスタンドになった写真入りランプシェイドは、ここにある。残念ながら本自体は品切れ。捜索中。


 ところで写真彫刻のあの不思議な実在感と実在性の希薄さをバッチェンはステレオ写真に関連付けて語っている。これはちょっと面白い指摘である。顔の部分のみを写真で、のこる胴体部分は木彫りの彫刻で制作し、彩色したうえで木枠にいれ、前後をガラスで覆ったこの製品には、奇妙な現前性がある。その一因は切り抜かれて引き伸ばされた写真の人物の輪郭線と、その周囲のいわく言いがたい空気感(真空感)にある。コラージュされた肖像写真、そしてこの写真彫刻、さらにはステレオ写真のエッヂの際立った平面、いずれもきわめて似通った現前性をかもし出している。過去を志向する写真というよりはむしろ現在において生をせきとめ、永遠の現在にイメージをひきとめるような時間性、それが強烈に訴えかけてくる。あるいはそこから時間の解凍が未来に向けて始まる。現前かつ不在、生であり死、運動であり静止、そうした亡霊性が写真彫刻のコアであるような気がしている。

 どうでもいいがそういう話を読んでいると、ヒッチ『めまい』のマデリン再登場の亡霊のような回転シーンを思い起こしてしまう。あれも変なシーンである。
 めまい ― コレクターズ・エディション [DVD]

■Forget Me Not 10
 このシリーズも11までなのでもう少し。しかも蝋細工とともに写真を深い額縁つきケースに収めた事例は8月に半分書いているのでその続きになる。
 で、続き。
 ここでも写真の加工品が引き起こす時間性が問題になる。ここで重要なポイントになるのは蝋。記憶するための素材である蝋、しかし蝋は潰えていくことによって新たな知覚を可能にし、そうして新たな記憶の保存を可能にする。写真の周囲に配され、現在では萎れて縮んでしまった花や蝶の蝋細工、それは、痛ましい損傷とみなせばよいのではなく、むしろある種の蝋板として記憶の動的な働きを暗示しているのである。さらにいえば、抹消や加筆や書き込みを経た写真もそのような一種の蝋板とみなすことができるのかもしれない。過去を志向しながらもその加工によって強烈な現前性を帯びることになり、その結果亡霊的な時間性を見る者に引き起こすが、同時にその基層の衰滅によってかえって未来へ開いた新たな書き込みを促す蝋板。