ヴァナフォト論紹介終了

■ステレオレクチャー
一月中旬に再びPGでレクチャーをします。申し込みはここ。宣伝文をこちらにも貼り付けておきます。

PG講座第8回「2.5次元のリアル――ステレオ写真の快楽」
 講師:前川修(写真論・神戸大学助教授) 司会:斎数賢一郎
 2007年1月13日(土) 18:00〜 受講料:2000円 定員:15人

講義概要

 19世紀の写真の流通経路に、絵葉書や肖像写真に並んで、ステレオスコープがあった。ステレオスコープとは19世紀前半に開発された科学的実験装置であり、これが当時発明された写真と結びつき、ステレオ写真が爆発的に流行することになる。やがてステレオ写真は、科学、軍事、観光、教育、娯楽など、さまざまな用途に応用され、視覚文化のひとつの中心を形成した。
 そもそもステレオ視は、遠くのものを目の前に近づけつつも、鼻先で微妙な距離を保つことで、どこにもない立体像を生じさせる見方である。しかし、当時その像をつうじて欲望されていたのは、現実の世界を触れるように確かめることでもあった。ところがその確からしさは不安定であるがゆえにかえって生々しい確からしさでもあった。3次元未満2次元以上の奇妙で強烈な現実感、ステレオ的視覚が、「見る」ことに憑かれた19世紀の視覚メディア(パノラマ、写真、映画など)のあいだで、あたかもステレオ像のように不安定に浮遊しつづけていた理由はここにあるのかもしれない。
 このレクチャーでは、ステレオ写真を見ながら、こうしたステレオの起源とその快楽について考えてみたい。

と書いていますが、要はステレオ写真を見ながら語りながら文字通りの奥行きの現在性に身をゆだねてみようという会です。まだ受付は大丈夫だと思いますので、よろしくお願いします。


■Foregt Me Not 11 記憶の危機とヴァナキュラー写真
 ようやく終了。書きたいし書きゃなきゃならないものを書いているので不満はない。詳細は上と同じく次号のPGの文献紹介で。その一部だけ字句をいじって書いておこう。

 本書の冒頭でバッチェンは、次のような問いを提起している。つまり、写真はそもそも記憶を高めるものであるのか、という問いである。
 たとえば、クラカウアーによるあの有名な写真への批判を思い起こせばわかるように、写真は、19世紀に生じた「記憶の危機」と呼ばれる事態の一因になっていた。近代化にともなう時間や空間の均質化、従来からの伝統や有意義な記憶とのむすびつきの消滅、こうした文脈から見れば写真は、記憶の代替物として交換される安価で画一的な商品であり、ただ記憶の空洞化を推し進めるだけの媒体であった。
 他方で、ヴァナキュラー写真に加えられたさまざまな手作業は、記憶の危機に対する抵抗でもある。主観的な有意義な経験から切り離され、際限なく反復可能であり、遍在的で交換可能で均質な記録、それを意図せぬ自発的な想起を誘発するような本来的な記憶の担い手へと変容させるための作業の成果、それがヴァナキュラー写真。もちろん、そうしたものも所詮、商業的製品にすぎない、近代化の経験にたいして市民階級が最後の砦として立てこもった思い出の品物で埋め尽くされた室内のように、後ろ向きで喪失や不在への嘆きを繰り返すだけのステレオタイプでしかない、そう批判することも可能であろう。ともあれ、いずれの立場を採るにせよ、ヴァナキュラー写真は、記憶の危機の兆候であり、記憶の危機の所産であることは間違いない。
 近代化の作用項であり補償項である写真、こうした写真の二重性が表面化し、収斂する現象、それがヴァナキュラー写真である。しかもそれは、芸術にも産業にも、過去にも現在にも、生活文化にも最新技術にも、被写体という客体にも所有者という主体にも、ましてや複数の主体の構成する共同体にも還元してしまいきれない現前でも不在でもない/ある亡霊的なメディアであった。
 分割線や境界線のうえ、敷居のうえの此岸と彼岸を往き来する写真、ヴァナキュラー写真の経験の核は、本稿で繰り返し明示したように、流動的で不安定な主体の境界、集団と個人の同一性のあいだ、私的なものと公的なものとのあいだ、内と外とのあいだ、写真と他のメディアとのあいだ、諸感覚のあいだ、写真に織り込まれる時間性のあいだの境界、そして生と死の境界線のうえを漂い、境界線を引きなおしつづけていることにあった。ヴァナキュラー写真は、モダニティやモダニズムに関するあまりにも単層的な語りかたをする言説の磁場にも斜線をいれる。そうした作業をうながす写真論、それがヴァナキュラー写真論なのである。

あとはこうてください。