ベル系・エロ・地理・星・壁紙

■電話うた ベル系
 昨日細馬さんと写真うた&電話うた話をしていたら、電話には前倒しのコミュニケーションがあるという話題にもいきつく。例えば80年代の薬師丸『あなたを・もっと・知りたくて』。たしか電話会社のCMソングにもなっていたはず。
 薬師丸ひろ子 ゴールデン☆ベスト 松本隆/風街図鑑
歌詞はここ。この歌詞、呼び出し音の回数でかけた相手の特定ができるようなベルコミュニケーションが織り込まれている。これが前倒しのコミュニケーションという言葉の意味。もちろんそれは、諸事情があって電話先の空間で他の者が電話口に出ては困るからである。この当時、こうした使い方が結構あったそうだ。それにしても、この歌どう読んでも不倫電話うたにしか聞こえない。これも昨日出た話。
 これに対してケータイは、周知のように、身と一体となり、着信とともに本人相互の特定ができてしまう。固定電話の呼び出し音が玄関外のチャイム、そして玄関から先という空間的段取りをなぞっているとすれば、ケータイは自室の自分の身の隣に突如出現する媒体だということでもある。いやそれ以上に距離の無いメディアといった方がよいかもしれない。
 あるいは別の言い方をすると、ケータイコミュニケーションでは、相手がどこにいようとケータイは身とひとつなので必ずやつながり、だからこそひとは電話をして相手にまず「今どこにいる?」とたずねるのである――最初の「もしもし」のトーンと二言目の落差というものが今の電話コミュニケーションにはないのもそのためである――。したがって、逆に言えば、電話に出ないことはつながりたくないことを意味してしまう。最近の電話うたの消耗度数の増大はそんなところにも原因があるのかもしれない。
 もうひとつ。ケータイ電話の写真機能は、先の身体との一体性からさらに展開して考えることもできる。撮影後すぐに送信すること、そこに写真機能の意味はある。それは今どこにいるかの記号であり、何を話すか以上にどこで着信送信しているのかが重要になる。
 そしてそうして撮りためられた、構図も何も目だったところのない小さなアイコン的画像は、ひとたび撮られ、しまわれると、もはや撮影者本人の記憶のための記号としてしか存在できなくなるのではないか。アイコンひとつひとつに付加された送信相手、送信時間のただ時間軸状のタイムスタンプのような目印のみがそこに残り、本人以外はそうした画像は読み解きようのない謎めいた印になっているのではないか。ケータイの時間性、その現在性はこういうところからも読み解けるのではないか。
 さらに「つながっている」と「キター」との相互断絶性と接続性も、この時間性から考えることができるのではないか。まだ推測の域ではあるが、こういうコミュニケーションの実情については調査が必要。。。等などが電話うた写真うたで話をしたことだった。
 ゆくゆくは、80年代歌謡曲論まで手を伸ばすことになるかもしれない。今現在準備は全然できないけれど、松本隆論のために右のCDにも唾をつけておく。

■星と壁紙、エロと地理
レクチャーのための素材をお借りすると同時に、ステレオ本のマストアイテムをいくつか紹介してもらう。ひとつが、星の本。星の奥行きが無限に拡がるもの。

星の本 (福音館の科学シリーズ)

星の本 (福音館の科学シリーズ)

さらに引っかかってきた3D本もついでに注文。ひとまず遠山式ものと地理ものは注文。最後の立体ポルノグラフィは考え中。
Touch it!―遠山式超立体写真集 立体で見たい地球の必見スポット (ニュートンムック)  蒼井そら 超立体3D・飼育観察日誌
もうひとつ教えていただいたのが壁紙もの。ブリュースター関連でぜひ言及しておきたい壁紙錯視、その素材。別に3D仕様ではないが立体に見えるズレをもつもの。
Japanese Border Designs (Dover Pictorial Archive Series)

恋愛写真 写真うた
恋愛写真
そろそろカンネンして写真うたの現在版、恋愛写真を読む。歌詞はここ。きわめてまとまっているし、落ち着いた写真うた。
ステレオダイアリーでも書いたように、このうたは、悔恨型から追憶型へ向かう途中にある。 ポイントは、「いま飾られてる」写真を見ている今から過去を振り返ったところにある。「見てた」「幸せだった」「交わした」「よかった」という過去形が反復される。過去のシーンの浮上である「ただ君を愛している」は想起内の言葉なので現在形になる。引用符もある。一見すると充分な追憶にも思える。
 だが少しだけブレが生じるのは、「のに」という文末の表現、「あなたが見せる」「シャッターを切る」「つながれてく」という箇所での、未完のものへのつながりかた、「た」の後に「よ」という組み合わせなどである。最初の「あなたが見てた」「時折見せる」の視線の非対称性は、私の側での悔恨がいまでも続いていること、そして回想の波の満ち干きが繰りかえされていることを示す。それらが交互にリズムになる。かつてあったが写真を通じていまここに現前する、しかしこの今はかつてのものである。回想の渦に巻き込まれてもしまわないし、追憶の距離感まではいかない。
 ただし、写真うたの系譜のなかで見れば一番大きなポイントは、女性がカメラをもち、男性を写しているということ。つまり、男性がかつて写した彼女の写真を見るのでもなく、反省の主体が男性でもなく、撮られる側としての女性が抵抗するわけでもなく、女性が自身のイメージを描き、それが男性の描くイメージと食いちがったことにすべてが起因するということ。しかも、私「の」描く像は今も壊れないでおり、私の側からの映像が反復される。ここが特異な点である。そう考えると、男性による自身撮影の写真を眺めて取り返しのつかなさをちまちまと嘆く写真うたに比して、かなりタフな写真うたにも思えてくる。たぶん本当のポイントはここにある。もちろんそうした写真には「碧々とした」色がしみわたっているのでもある。
 
今日の欄はこれまで。