ステレオ・スキャン


一日100枚ステレオ写真をスキャンしている日々。

■ステレオ師としてのラルティー
 ラルティーグのステレオ写真を眺めていると、10歳にも満たない時から成人した頃まで撮り続けられた写真、ステレオでは見ていなかったその有名な写真のことごとくが、ステレオ的感覚に基づいて撮影されていることがあらためて確認できる。
 いくつかのポイント。
 面の重なりの絶妙な配置はもちろんのこと、水面の問題、煙の問題、瞬間とギクシャクの問題、枝や草の複雑な模様とその横前方への張り出しと屈曲、透過の問題、ありとあらゆるステレオ的感性がラルティーグ写真には溢れている。以前ここでも書いた世紀転換期のアマチュア写真の問題とも強くつながる写真。

■ステレオ内のステレオ
ステレオ写真やヴューアー、それを使用して写真を見入っている居間の様子などを撮影したステレオ写真がある。昨日の話では、数としては少なく希少で高価なもののようだ。ステレオ写真が実際にどういう工程で製作されていたのかを辿ることができるような一連のシリーズもある。次のものはその一枚。フリゾの写真史本から。

この二枚組のものがこれ(ようやく見つかる)。

なぜかごが手前に置かれ、なぜステレオカードがこの位置にぶら下がっていて、なぜ奥の暗い空間があるのかがこうしてようやく分かる。このシリーズはキーストン社、アンダーウッド×2社などまとめておく。

■スケルトステレオ写真

ステレオ写真のジャンルでもある静物写真の中には植物がレース状に透けて重なっているステレオ写真がある。一枚借りてきて見直しているが、これはゴースト写真ステレオと意識は一緒の作り方をしている。しかも亡き者を哀悼するメモリアルステレオ写真としての用途があったという。文字は「beautiful in death」なのだから間違いはない。
 以前トルボット論で書いたが、植物の葉脈への固執というものが19世紀写真の奥まったところにある。レース織と植物の組織、両者がコンピュータと織機と写真をつなぐ。
 で、遺体や死体のおぞましいステレオ写真はおいておくとして、死者を記念するステレオ写真というものもある。

 写真はステレオにはならない。しかし周囲の花環が立体になってこちらにこぼれてくる。花環の歴史についてもすでに書いたが、それはかりそめに静止させられた生を意味する。その静止したものがステレオで息を吹き返し、写真にも息を吹き込もうとするかのようなステレオ写真