見学

■見学日1
見学で兵庫県美へ。ヴィオラ展。天使ものがなかったのはたしかに残念だし、暗さがいまひとつのところもなきにしもあらずだが、音響はそこそこ頑張っていた。東京の際と同様、映像の速度に同期化していくこちらの身体も含めた、情動が面白い。そしてヴィオラの選ぶ人物の手は結構気になる。東京では見る暇のなかったはつゆめも見る。見るひとによっては辛いかもしれないが、結構苦もなく見ていた。次に何をどう撮りたいのかが一手一手わかりすぎるほどわかるような1時間。いわゆるパノラマ的な感覚にも少し素材ができた。灯篭を浮かべた水面とフロントガラスの水滴と鯉の暴れる水面がまざったシークエンスはぐっとくるものがある。
 それよりも写真論の関心からとても面白いと思うのは、ヴィオラの低速化が極限までいけば、静止にいたるということ。静止の手前の動きの現在性と静止の時制の隙間について考えるための素材がここにはあるような気がする。
そしてもうひとつ。ヴィデオの問題もここには提起されている。巨大な絵画的作品とは違うヴィオラのヴィデオ的側面もおさえておく必要があるだろう。これはヴィデオ論のために。

■見学日2
 とまあ、午前の見学の部、午後の見学の部をさばいて――あとでまだ見ていたひとがいるという知らせはもらったがもはや次の場所への移動中――、大阪城脇のドーンセンターのコミカル&シニカル展へ。あちこちで知らせを受けていた若く元気な写真家たちの勢いがよく見てとれる展覧会。会場として選択されたプールはほとんど違和感なく、むしろちょっとした段差のアクセントやタイル面が視線にひっかかってきて相乗効果を生むようになっていた。
 たとえば、ウメカヨさんのもろ速度勝負の写真行為はタイルとともに散った形で見れば、写真集の遅さが目に付いてくるだろうし、浅田家はプールのそこからあおぎみると大口をあけて笑えるし、植物のパノラマは何かの用足しに草むらに不穏に腰をおろしているような感じまで生じてくる。目洗い場の池田タテバンコ作品は見上げていると、立ってないもの、立たされていないものがかえって目に付くし、切り取られた空白部分が注意を奪ったりもする。切り抜くといえばポートフォリオコーナーのおバカコラージュ本や前述のウメカヨ作品にも見られる。
 もの写真論として気になるのは、切り抜き以外に、Remedyの待受け大のミニチュア写真像―タイルみたいに薄くすればもっと変化が生じるのかもしれない―、韓国の結婚式場や結婚プロジェクト。韓国結婚記念文化は折を見て情報収集する必要もある。(会場風景をいちおうあげておきますが、もし問題があれば御一報ください) 
 

■伏目
昨年6月に参加した芸術学関連学会のHPがようやくアップしたようです。コメントとかも各種あがっています。伏し目がちの私もあがっています。このときの懇親会でいろいろ交わしたことから、今考えている草写真論=もの写真論=ヴァナキュラー写真論を書いています。全体についてのコメントに関するリアクションはまたあげると思います。
 ひとつだけ言うと、私の立場はたんなる多様性のぬるま湯につかってよしとか、文脈主義万歳ということでよしとか、そういうものではないのは確かです。それよりもむしろ、複数のメディアが相互に不均質に身体に作用していく様子を言説化していく可能性をあげていました。そこは大きなズレだと思います。
 そして自前コメントを付け加えるとすれば、次の問題があります。現状としての主体未満の主体の自己回帰的な享受構造が、討論では時間の関係上、そしてその他の問題上、何も会場からはあがらなかったということが、様々な意味で大きな問題だと思います。美術でも写真でも音楽でも舞踊でもデザインでも、それを消費する主体が、その受容に介在するメディアこみで行っている奇妙な受容、消費形態、それをいかに扱うのかが次の課題であるような気が強くします。
 とりあえず感想まで。あとだし×2ジャンケンは理解したうえで。