おむすび・幻灯・ゼロ・ロケット


あそむび。試してみよう。
…どうでもいいけど一連のCMで、ナガサワマサミの顔の丸さに「おむすび」と読み間違えたひとも結構いるんじゃないかと思う。ファンの方にはすみませんが。

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ZERO 下    BIG SPIRITS COMICS SPECIAL
ようやく購入。一試合一冊という構成。

■想像力のメディアとしての幻灯
グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)
文庫版も買う。腰痛なのでこれは楽。キットラーのマジック・ランターン論もそろそろ取り揃えておく。幻灯と想像力というテーマはベタすぎるが、メディア論的枠組みから捉えると別の議論ができるはず。

■ロケット写真論2
Irit Rogoffが『ヴィジュアル・カルチャー・リーダー』で言うには、視覚文化という試みは「私たちが文化を組織し、文化に住まう」ことを可能にしている構造を変容させてしまう。つまり、制作と理論化と歴史化との間の境界線が侵食され、もはや相互に区別がつかなくなってしまうことが、VCの最も興味深い側面だと言うのである。フォスターはこれを、危うい「エスノグラフィック・ターン」と見なし、VCが主体と客体を、芸術の良し悪しを、芸術と非芸術を区別できなくなってしまう事態を批判しているのである。
 フォスターが維持しようとしているのは、大衆文化における前衛の政治的な機能である。グローバル化された資本への追従への抵抗の余地がそこにある。この余地を特権化し、資本主義文化の所産のなかで継続して蔓延させられているモデルにたいする代替モデルを提示することが歴史的批評の使命だということになる。この区別がロケット写真とそれが誘発する言説によって代補的な力動的論理のなかに巻き込まれてしまう不安や懸念、これが批判の核である。
 こうした視点から見れば、ロケット写真論には、ヴィクトリア期の中上流階級の感覚の具体化しか見いだせないだろうし、名だたる写真家の写真ほど注意を惹くべきものではないように思える。しかし、ロケット写真論の前提には、批判的、政治的な作用がその対象とともにあり続けるということがあり、そしてその作用によって資本主義の所産すべてに内在する批判のための空間や諸矛盾への視座を切り開くに違いないとバッチェンは述べている。
 この、別の余地の開き方、その可能性が有効なのか、そうでないのか、これを考える必要がある。ともすれば、ロケット写真論は、その所有者や制作者などの主体による意味生産や彼らの同一性を支える媒体として、歴史の中にしっくりおさまってしまいがちである。しかしバッチェンがロケットに見いだすのは、そうした収まりからはみ出す揺れや摩擦を物質的にも言説的にも生み出す媒体の可能性なのである。
 この議論で言及されたフォスターの「アーカイヴなきミュージアム」も読んでおく必要があるだろう。そして高級文化と大衆文化の議論に関連してヒュイッセンも読み直しておこう。
The Visual Culture Reader After the Great Divide: Modernism, Mass Culture, Postmodernism (Theories of Representation and Difference)