媒体


キットラー
 とりあえず簡単にまとめていこう。
 「接続可能なもののみがそもそも存在する」。
 キットラーのメディア概念は、その史的メディア学の企図の枠組みの中で明瞭な輪郭を得る。彼がメディア概念に関心を示すのは、この概念が従来とは少々異なるメディア史の境界を浮かび上がらせるからである。つまり、従来のメディア史において常套句となっている、三つの区分――アルファベットの発明、活版印刷の発明、コンピュータの発明――とは異なる区分をこの概念は可能にするのである。
 キットラーの区分は、アルファベット、アナログメディア(グラモフォン、シネマトグラフ)、デジタル技術となる。手書き文字や活字の時代は「象徴界」に結び付られていたのに対して、アナログメディア以降の技術は、「リアルなもの」の保管と加工と伝達を目的としている。言い換えれば、文字の時代においてはすでに象徴界の要素であるものが書き留められ、いわば記号の「自然」がそこでは重要であったのに対し、アナログメディアによって、象徴界の外にあるもの、つまり自然そのものが書き留められることになる。ちなみに、写真にもこのことは当てはまることは言うまでもない。
 キットラーのこうした区分、あるいはそれを組み立てとしたメディア学の試みのひとつの意図とは、解釈学的な精神科学をメディア史学と交差させることにある。もっと強く言うならば、これまで象徴界でもっぱら紡がれていた人文科学、その、意味と解釈を統御している当のメディアそのものについて考察し、メディアを通じてその硬直性を解除することにある。
 ここで彼の議論に対してふたつの不満が表明される。ひとつが、メディアとしての身体の排除、人間の知覚の排除という批判である。ふたつめが、シャノンの情報理論になぜ現在もなお意義が与えられているのかという批判である。
 前者の批判に対しては、容易に返答ができる。いつもすでにメディアを介している視点、つまり接続可能性の視座から議論が行われているのである。後者の批判に対しては、シャノンのラディカルさに着目すればよい。日常的言語も含めたコミュニケーションすべてを伝達という視座の中に収める理論ゆえにそれが選択されているのだと。
 しかし、そもそもキットラーは、技術的なものという概念に何でもかんでも還元していないか? そもそもがメディア論ゆえにそうなるべくしてそうなるのだと片付けてしまうのではなく、彼の技術概念がその理論の核に関わっていることも考えておかなければならない。(つづく)

■BD
もの写真論の素材としてバックドロップを探していた。写真スタジオのあの背景幕のこと。

こんなレンタル店もある。シーンバックドロップを参照のこと。
もっと巨大なデコレーションものもある。火星ものは無意味に欲しくなる。後から光をあてると表面の絵柄が消えるものもある。バックドロップには舞台背景画のみならず――物語のエージェントになるイメージの文脈――、ディオラマの伝統も潜んでいる。