媒体

キットラー
 彼の技術概念には、私たちの時間に対する関わり方が含まれている。流れゆく時間の不可逆性、それを操作可能にするのがこうした技術なのである。それは別に映像の記録可能性や録音可能な時代以後のことではない。文字と書物の時代においてすでに、象徴界の線状化された時間は、書物の頁状の文字を見れば明らかなように、すでに空間化を被り、反復可能で、置換可能となっていた。しかし、アナログ技術メディアの時代には、カオティックでもあるリアルなものの時間が保存可能になり、操作可能にもなる。技術的メディアによるデータの加工は、空間化を通じて時間的順序が移しかえられ、可逆的にもなるプロセスなのである。
 文字メディアから技術的メディアへといたるメディア史の探求を以下にポイントをおさえつつ整理してみよう。
 ここで文字の時代以前以後の区別に進む前に、キットラーフーコーの共通点と差異も確認しておかなければならないだろう。両者の差異は予めキットラーの言うアナログ的な技術メディア、新たな書記システムとそれ以前の時代とを区別するうえでも、方法論的な区別をするうえでも重要だからである。
 両者の共通点は、ディスクール分析にある。意味や理解ではなく言説の総体を統御している諸規則、そしてそれと交差する非言説的技術、その基盤となるアルシーヴ、こうした諸概念や方法をキットラーは受け継いでいる。
 しかし、キットラーによれば、フーコーの議論はアルファベットの体制の時代に対応し、そのアルシーヴ・モデルは依然として図書館であった。1850年を境にして生じる別の「書記システム」の登場、それはむしろアナログ技術メディアにより促されたのであり、そうした知の諸形態を分析するには、もはやディスクール分析ではなく、技術的メディアの分析に依拠する必要がある。キットラーフーコーの探求が終結した時点から始まるというのはこうした意味においてである。
 そしてディスクール分析の変容とともに、そこで用いられるメディア概念自体も変容させられる。メディアはデータの保存、伝達、加工を行う領野を構造化している。データがあり、それを伝達する担い手としてのメディアがあるわけではない。むしろある時代においてそもそもデータと見なされるものを予め形成している諸技術や諸制度の成すネットワーク、それが彼の言うメディアであり、書記システムの場所なのである。
 ということでアルファベットの時代、その書記システムから見ていこう。
 
 文字の時代。多くのメディア論でもしばしばなされる話し言葉と書き言葉との差異は、キットラーにおいても重要な区別になっている。しかしキットラーにとって決定的なのは、この書記システムを通じて生起するものすべてが象徴界の秩序に属しているという事態である。この文字メディアが保管・伝達・加工するデータは、シニフィアンの連鎖、コードを通じて与えられる。後の技術的メディアに比較すれば、その違いは明瞭である。コード化不可能な物理的世界ではなく象徴界に関係づけられるデータを生み出すのが、前者のメディアである。
 もちろんメディア的なものを語る場合、メディアは記号の伝達を行う担い手であるという物言いは、ごくありふれたどこにでもある言い回しである。しかし、彼の議論においては、それは文字メディアに、アナログ技術メディア以前にもっぱら妥当するのであり、象徴界という概念は、周知のように、ラカンの用語から取ってこられたものなのである。
(続く)