逆回し


■文字と空所
「リアルタイム・アナリシス…」では、象徴界の説明は次のようにされている。
象徴とは象徴外のものを表すのではない。むしろ象徴とは、――あの盤上のゲームのように――ひとつの空所があるために、象徴を別の象徴のある場所に置き換えたり、相互に移動が可能な空間、そうした空間のなかの要素であると。このような不連続な構造をそなえたシニフィアンの連鎖は、時間の非連続化という時間軸の操作も引き起こす。
 この時間軸操作の担い手は文字である。
 連続的、継起的な時間の流れのなかでは、先ほどの盤上ゲームの場合のように「填められた場所と空の場所の並存」は与件ではない。それゆえ、流れゆく時間の秩序は不可逆的でありつづける。ここで登場するのがアルファベット文字である。それは「時系列に並んだ発話の連鎖の各要素に空間上の位置」を割り当てる技術であった、とキットラーは言う。もちろんそこには空所(Leerzeichen、スペースないしゼロ記号)が存在しなければならない。ここが線状化のみを指摘するマクルーハンとの違いである。
 文字及び空所がない場合、「一度発話されたことを、シンタックスを無視して後から前へと暗証するような」別の秩序へ移すことは不可能である。一方向の反復や暗唱、それを行う人間の一時的記憶しかそこでは依拠することができない。
 しかし、このことを、時間における継起を空間における並置へと配列しなおすことで可能にしたのが文字と空所なのである。例えば語間や文の両端にあるスペースという区切り記号によって文字は移動可能になり、それと同時に時間は配列可能になり可逆的にもなる。回文そして詩もこうした操作を前提にしているとキットラーは言う――さらには楽譜もこうした例のひとつに挙げられる。
 したがって文字というメディアにおいては、データを保存するということは、ここでは時間のプロセスを空間化し、その諸要素が交換、配列されるための基本的操作すべてを含んでいることになる。
 キットラー特異点は、通常のメディア論でなされるグーテンベルクの銀河系以後/以前という区分を採らないことにある。彼は両手で持ち、次々と繰り広げる巻物からページに区切られた写本という形態への移行こそが切断面になると考える。読みの経験が連続的な秩序のもとから離れ、空間的に分割されたものへと移る。テクストのどの場所が指し示されているのかが明示可能になる構造、それが以後の印刷可能性において「ステレオタイプ」化されたのである。もちろん上記のことは印刷技術によって可能になった図版複製にもあてはまる。

■逆まわし論
 『自動ソーセージ屋』というリュミエール作品を探す。これも『壁の取り壊し』と同様に、逆まわしの時間操作で提示された映画であるそうだ。映画における逆まわし、録音テープにおける逆まわしと、文字の独占状態という条件下での逆向きの読みとは異なる。両者は異なる時間軸操作に基づいているからである。
 例えば、Leben(生)とNebel(霧)という文字列では、現実のざわめきが捨象される。逆まわしにしたときにそのざわめきがあたかも水の分子の無秩序な運動となるかのごとき(霧のごとき)運動は、後者の時間軸操作においてはじめて認識可能になる。
 霧や煙や揺れる水面になぜ映画、写真が注意を向けたのか、それはこういうところから議論できるかもしれない。細部というだけでは物足りないことが分かる。時間軸操作の問題。

■機械としての書物
What's the Matter With the Internet? (Electronic Mediations Series)
Authors Analogue and Digitalを読んでいる。上で挙げたキットラーによる書物の捉え方、そしてフルッサーの議論が参照されているため。