消滅

昨日は会議会議歓送会で終了。
徹夜明けはさすがに朦朧。名犬ジョリーを力説するおふたりを目の端で見つつ帰京。


■バッチェンからフォスターへ
会議の合間に読み残していたバッチェンのロケット写真論を読む。
内容はほぼ『Forget Me Not』と同じ。最後の節がやはり視覚文化や視覚文化の人類学に対する問題提起になっているのでそこのみ読めばよいという感じ。
さらにオクトーバー誌視覚文化特集号掲載のフォスター論文へ。
これは翌日の項へ。

ヴィリリオ
時間の消失する症状を調べている。これは、ピクノレプシーという病気。ここを参照
ヴィリリオの『消滅の美学』がこの話題から話をはじめている。
「空白はしばしば朝食時に起きる。カップがてもとから離れて落下し、その中身がテーブルにこぼれる。不在が数秒間続く。その始まりと終わりは突然である。感覚は目覚めたままである。だがそれにもかかわらず外的印象を感じてはいない。帰還は出立とおなじくらい突然である。とめられた言葉や身振りが、中断されたところから再開される。意識された時間の両端が自動的に再びつなぎあわされ、はっきりとした中断もなく連続的な時間を形成する。こうした不在がきわめて頻繁な場合もある。一日に数百回、大部分は周囲にはまったく気づかれずに生じる――ひとびとはここでピクノレプシー(ギリシャ語「ピクノス 頻繁な」に由来)を口にする。しかし、ピクノレプシー患者にとっては、何も起きていないのであり、不在の時間は彼/彼女にとっては存在しないのである。危機ごとに、それと気づくこともなく、彼/彼女の持続のわずかな部分がたんに滑り落ちているだけなのである。

 大部分の場合、この症状に襲われるのは子どもである。しかも子どものピクノレプシー患者の症状は、すぐさまたえがたいものになる。ひとびとは彼/彼女に、目の前で起きたにもかかわらず、自身が見ていない出来事の存在を説明しようとする。患者は納得できないゆえに、ひとは彼/彼女のことを未発達の者とみなし、嘘を言ったりとぼけていたりするのだと考えるのである。自分の周囲の言うこうした要求にひそかに動揺させられ、苦しめられるため、彼/彼女は、自分の記憶の限界を何度も破りながら、欠けている情報を探さなければならないのである」。

まずここまで。次はラルティーグまでの部分。

■ヴァナキュラー
という語を怠惰にも整理してこなかったので、いまさらながら整理をする。
ルドフスキー『建築家なしの建築 (SD選書 (184))』、セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』、イリイチシャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)』。…セルトー本が見つからず仕方なく再購入。