回想の現在形としてのユーミン

■フォスター
フォスターの議論は、現在の「視覚文化」という動向を批判的に検討することにある。
はじめに彼は、20世紀末のこうした状況と19世紀末の芸術についての諸学の状況との類似性を指摘する。つまり、前者においてはヴェルフリンに見られるような芸術の構成的な側面への注目と、リーグルに見られるようなさまざまな芸術意思への着目があり、こうした前提があってはじめて、モダニズム美術の自律性についての主張が行われ、いわゆる美術史学が生起することになった。
 20世紀末の場合、メディアの視覚的仮想性とポストコロニアル的な多元性、この両者が前提となって視覚文化研究という動向が生じている。さらに並行関係はもうひとつある。19世紀末においてスライド写真などの複製技術が広範な対象を様式の体系へと抽象化することに寄与していたとすれば、20世紀末には広範な対象をイメージ/テクストのシステムへと変容させることに寄与しているのは情報技術であるからだ。
 複製写真が美術史の言説形成に及ぼした作用は、1930年代まで考えられることはなかった(ベンヤミンのことだろう)。それと同様に、現在の複製技術が視覚文化という言説に及ぼした作用は依然として考えられていないのではないか。その電子的条件、認識論的含意はどこにあるのか、それを考えなければならない。

ヴィリリオ
「子どものピクノレプシー患者の目の前に花束を置き、それを描くように言うと、彼は花束ばかりでなく、それをおそらく花瓶に入れた人物も、さらには花が摘まれた草原さえも描く。ここで明らかになっているのは、ひとつづきの諸場面をパッチワーク的にまとめあげ、その輪郭を互いに調節し、自身の目にするものと目にしていないものとのあいだ、想い出すものと明らかに想い出すことができないもとのとあいだに対応関係を作り出す習慣である。自身のdiscurususに本当らしさを付与するために、それは発明され、あらためて作りなおされなければならないのである。子どもの患者は後になって、周囲にいるひとびとの知識やそれに一致した証言に疑念を挟む傾向をもつようになる。どの確かなものも疑わしくなるのであり、(セクストス・ エンペイリコスのように)子どもは、本当は何も存在しないのだ、たとえ存在があっても、それは記述できないのだ、たとえそれが記述できるとしても、それを他のひとに伝えたり説明したりすることはできないのだと考える傾向をもつようになるのである」。

…とあまりに面白そうなので訳出しはじめましたが、長くなるので以降の訳はこのページで随時追加していきます。毎朝数行追加することにしました。写真論、映画論にとっても重要な本だと思うので。

■パルコ、ユーミンマツダセイコ
「自由な時代」の「不安な自分」―消費社会の脱神話化が届いたのでざっと読む。
パルコ的なものについての最近の議論(ディズニーランド論も含む。例えば吉見、柏木、北田の議論)を、実際のパルコに近しかった著者が反論を行った箇所は興味深い。ただし、そうした現実と言説の対比が、言説のうえで相互反射しているのがパルコ的、ディズニーランド的だということなのだと思う。
 この本のユーミン論は数あるユーミン論の中でもとくに読みごたえのあるものだった――卒業写真原稿はもう書いて送ってしまったけれど――。というのも、第一に地理的な問題が明確におさえられているということ。ユーミンの生まれた八王子、そして立川にまたがる米軍基地、そこを飛び立つ米軍機の雲が、もしかすると飛行機雲かもしれない。あるいは、横浜線で橋本で乗り換えて相模線から茅ヶ崎へ向かう途中に見る「白いハウス」は米軍キャンプの家々なのかもしれない。
 第二に、ユーミンのうたは1950−60年代の明るく豊かなアメリカの思い出から出発し、その70年代の陰りとともにノスタルジアの輝きを放つことになる。
 第三に、松田聖子(そして松本隆)とのつながり。ディズニーランド的なファンタジーを言葉の端々に浮かび上がらせる松本の歌詞にユーミンの歌詞、そしてそれを体現する絶好のキャラが松田聖子だったという三位一体説には肯ける。でもそうした曲のひとつに『蒼いフォトグラフ』が含まれているというのが、これまた問題的な対象になりそうな気がする。
 そして年末のクリスマスにディズニーランドへ行く、ユーミンのレコードを買う、街がディズニーランド化するという消費文化的な慣例が生じたのも、80年代のユーミンの戦略であったことも案外重要かもしれない。それが90年代で失速して今にいたる。

 まとめておくと、夜明けの青々とした色と時間を表す『コバルト・アワー』(1975)がすでに過去のものとなる時代への憧憬で始まっていたとすれば、さらに赤く染まった夜明けにもっと近い空の色『ドーン・パープル』(1991)は、実は夜明けではなく黄昏の紫だったのかもしれない。
コバルト・アワー 

DAWN PURPLE

DAWN PURPLE

この項はこんなもので。
ことわっておくけれどファンではない。
70年代半ばから記憶やノスタルジーを軸にした消費文化のループの起源がどこにあり、どこで失速したのか、あるいは現在も続いているのか、そんな問題をおさえるうえでユーミンは案外重要なのだという確認。