視覚/文化

■フォスター2
 さらにフォスターは、19世紀末に至るまでの美術史とモダニズム美術の関係性を簡潔に振り返っている。ヴェルフリン以来、芸術実践、芸術についての批評、芸術を収める美術館という三者は、メディア各々の特性へと切り詰められていった自律性に基づき、このうちとくに美術館が主な作用項になって各々の実践の制度的な支えになっていたという。

 ところで世紀末の美術史は、この自律性を含めて二つの互いに矛盾するような原理に基づいていた。世紀末の美術史は、一方で芸術の自律性を根拠にし――新カント派による基礎付け――、他方でリーグルに見られるさまざまな異質な芸術への視座――ヘーゲル的な歴史観が支えになる――をもってもいた。両者のあいだの断層は、緊張に満ちたものであった。言い換えれば、芸術は自律的であると同時に、社会史にも関係すると考えること、このことが緊張を引き起こしていたのである。この問題は、一世紀前の話にとどまらない。たとえばそれは、現代におけるこのような緊張を緩和するためによく持ち出されるふたつの言説、つまり意味作用の実践として芸術を捉える記号論という視点、社会的症候として芸術を捉える精神分析を考えてみれば明らかである。それにしてもどちらの観点もアナロジカル、魔術的な論理に基づいてはいないだろうか、こうフォスターは問う。

 ここでフォスターはマルセル・モースとレヴィ=ストロースの名を挙げ、記号システムが誕生する際の剰余について話題を展開していく。言語や神話や記号システムが誕生する際のビッグバンにおいて残される記号表現と記号内容の不一致あるいは、過剰なもの、それが魔術的な概念――マナ――、浮遊するシニフィアンによって意味論的に吸収されている。
現在の美術史に再び目を向けてみよう。たとえば、そこでの不一致や剰余とは、コンテクストという浮遊するシニフィアンによって吸収されているという。コンテクストはテクストと組み合わされ使用されるが、これは先の自立性と社会性との矛盾、言い換えれば、剰余を吸収すべく用いられる万能の魔術的用語となっているのである。さらに一世紀前に立ち戻れば、ヴェルフリンの視覚様式も、リーグルの芸術意思も、そしてパノフスキーの象徴形式も、この矛盾を調停するために持ち出された剰余をおさめるための概念なのだと言うことができる。
では現在の美術史はそうした魔術的概念を使用しているのだろうか。たしかにあからさまなイデオロギー的偏向には細心の注意が払われている。しかし、上記の対立や矛盾はけっして解消していない。
ここでバクサンドールの著作(『ルネサンス絵画の社会史 (ヴァールブルク コレクション)』)が引き合いに出される。彼は一方で、視覚的なものと社会的事実との間の対立を破壊するために、時代の目などの文化的精神を如実に喚起させる用語を用いる。もちろんそれはテクストとコンテクストのダイナミックな関係を強調するためではある。しかし、彼のテキストには、古生物学的比喩や地理学的な比喩など、アナロジーが要所で登場する。
 視覚文化についての主要著作も、こうしたアナロジーや魔術的概念から逃れてはいない。顕著なのは歴史的な観者というモデルである。たしかにそれは時代精神の人格化などではなく、あくまでも歴史的に特殊な主体として、社会的な構築物として、その限度を超えることなく使用されている。そこでは芸術よりもむしろ主体が社会的な諸関係の堆積物なのである。しかし、逆に見れば、視覚文化研究書の各々で分析の対象となっているこうした主体が、まさに言説に一貫性を保証している。様式や形式の分析から、主体の系譜学へのシフト、これが美術史から視覚文化へのシフトを際立たせている特徴なのである。
 もちろん、美術史がその名のうちに芸術(の自律性)と歴史(性との必然的関係)という互いに葛藤する原理を含んでいたとすれば、視覚文化は、視覚のヴァーチャリティと文化の物質性とのあいだで引き裂かれている。では文化、視覚の各々どのような枠組みと見なされているのか、そして歴史から文化への、芸術から視覚へのシフトがどのような帰結をもたらしているのか、それをもう少し検討してみることにしたい。
 とりあえずここまで紹介。