歴史/文化

■フォスター3
まず美術史〔アート・ヒストリー〕のヒストリーから、視覚文化〔ヴィジュアル・カルチャー〕のカルチャーへの移行について。
 この変化には人類学への方法論的シフトが関わっている。もちろんそれが明瞭に意識されているのか否か、あるいは双子のように方向は同じでありながら互いに反発しあうかはそれぞれのケースによって異なる。とはいえ、最近の美術史における初期の美術史家――リーグルやワールブルク――への注目は、こうしたシフトと無関係ではない。例えば前者は末期ローマの美術工芸等の周縁的な対象への視点という点で、後者はインディアンの儀礼やそもそもの芸術概念の把握の仕方の面で、関心をひきおこしているのである。
 もちろん、この民族誌モデル、民族誌的転回の主要な担い手は、カルチュラル・スタディーズである。高級芸術/低級芸術の区別を破砕し、価値の等価なものとしてすべてのイメージが同一平面上で議論される枠組みを用意したのはCSだからである。
 しかし、このような美術史からイメージ史への移行は、少なからず問題を抱えている。それは、そもそもイメージとは何かということについて反省を行わない、美的な自律性を批判するのはいいがほとんど自動的に大衆的なものを前進的なものとして肯定してしまう、歴史的な説明を複雑なものにするというよりはそもそもそれを何ら説明しない、こうした問題である。他方、美術史ばかりでなく批評においても美術においても、その多元史的な複合性は増していく反面で、ポストヒストリカルな還元が強まっているのかもしれない、こうフォスターは言う。
 では民族誌的転回はなぜこれほどまでに美術史(およびその他の学問)において浸透していったのか。その理由は5つ考えられる。第一に他者性を扱うから。第二に、高級低級の区別なく文化を扱いうるから。第三にコンテクスト的であるから。第四に学際的なものをうまく調停してくれるから。そして最後に自己批判的な反省性を有しているから。この5つである。
 しかし民族誌的転回の発端である人類学は、そのうちにやはり相互に葛藤しあう二つの原理あるいは認識論を有しているという。社会的なものを象徴的な秩序、交換のシステム、記号の体系として強調する認識論と、社会的なものを物質文化の観点から経験的にあつかう立場(認識論)である。前者は作者の死等の言語論的転回を引き継いだものであり、後者は、前者の主体批判やテクストのパラダイムを拒否し、同一性や共同体へと向かっていく(経験論的転回)。
 美術史に取り入れられた民族誌的転回、その葛藤は、「魔術的に」解決されている。文化記号論とコンテクスト的なフィールドワーク研究、主体の否定と主体の再肯定、これが同時に曖昧なままなぜか並び立っているのである。
 ここまでがカルチャーについて。次はヴィジュアルについて。

 フォスターの説明はあっさりしすぎてはいるものの、クールに転回つづきの学問的言説の盛衰とその現状の問題点を腑分けしてくれている。
 以上読書メモ。