パンダ的


■写真研究会案内
ひとまず画像で作っておきました大きい画像はこちらから。宣伝してくれる方はこれを流用してください。

■なぜパンダ

 最近といってもここ2,3年、本屋で目の端に否応なしに入ってくるパンダ表紙。
 そもそも読んだとパンダをかけているにすぎない場合も多いのだろうし、中国特集の雑誌が表紙にセレクトしやすいからでもあろう。また、そもそもパンダは「やじかわ」いさ(『anan』かわいい特集号)や「こわかわ」いさにも事欠かないからなのだろう。聞くと、パンダ展まで開催されるというパンダ飛行機も就航予定である。
 さらにはパンダスーツまである。このサイトの動画。少々生々しい。素で情報誌を読むパンダ。

 それと他多数のパンダキャラはウィキペディア架空のパンダ一覧をご覧ください。やはりなぜパンダとつぶやきたくなる。

■彫刻写真論
 トルボットの『自然の鉛筆』についてのジョエル・スナイダーの論。
 写真の用法を披瀝したこの5巻組の世界初の写真集には二枚の彫刻写真がおさめられている。同じ彫刻を撮影した《パトロクロスの像》。この写真に付けられたテクストは次のような内容を語る。写真は、同一の彫刻をどのような方向から照明を当てるのか、そしてカメラと被写体の距離をどれだけ置くのかによって、さまざまな――明暗とサイズという――ヴァリエーションを生じさせる。これが一枚目の彫刻につけられたテクストである。同じ彫像を別アングルから撮影したもう一枚の写真には、次のような文章がつけられている。ドローイングへといたる王道はないと一般に言われている。しかし写真発明以後はそうした王道への手助けになりうる装備が登場したのだ。遠近法の法則など、怠惰なアマチュアたちにとっては妨げとなる諸法則の学習も軽減されるのだ、と。
 スナイダーはこのドローイングという言葉――フォトジェニック・ドローイングというトルボット自身による呼称も含め――を問題にしている。簡単に言えば、トルボットにおいては、写真は発明された当初、構図や主題の選択など、伝統的な絵画的イメージの文法や諸法則を引き継いだものであった、とくに版画と写真は、新旧複製技術として連続したものとみなされていた。もちろんそこにはトルボットの社会的地位や共同体の問題もひかえている。少数の金銭的時間的余裕のある知識人たちの共同体、これが彼の想定するアマチュアたちであったのは確かである。
 生産方法としては革新的でありながら、その表現方法においては既存の表象的伝統を引き継ぐ。目の訓練と同時に必要な手の訓練、つまり素描の負担を軽減するための手段、写真はその可能性をまだ充分には意識されないままである。ところが、世紀半ばには、、、というのがスナイダーの議論の段取りになっている。
 もちろん、以前トルボット論を書いたときには、この逆の側面を強調しておいた。なぜなら、トルボットが被写体に選ぶのは、自身の地所ばかりではなく、複製版画、書物のページ、コピー彫刻など、それ自身が複製である事物だからである。こうしたトルボットの両義性は、記憶術の文脈から彼の梯子写真を論じたウィーヴァーの論でも議論されていた。
 スナイダーによれば、こうした彫刻写真と、19世紀半ばの彫刻写真の議論と比較すれば、メディアの状況やその表象様態が明らかに変化していることが分かるという。ここでも彫刻写真が例になる。以下つづく。