坂道


タモリのTOKYO坂道美学入門
 坂道9割の職場で働いている人間にとっては、そして日常は坂のない平坦な碁盤の目の場所で暮らしているため、そのめりはりを毎度体感する人間にとっては、坂道論は魅力的な主題。
もちろんそれを坂道写真論として立てるということ。

■彫刻写真論
ヴェルフリンの彫刻写真論を読む。これは昨日のトルボットの彫刻写真から50年後の話。
 当時普及していた複製会社による彫刻写真の多くが、彫刻をいかに誤った視点や角度から撮影し、彫刻作品の本来持つ効果や諸部分の連関を損なっているのか、それが彫刻の見方とともに丁寧に語られる。
 例えば当時の様子に次のような批判が投げかけられる。

先の解説のなかで私は、イタリア・ルネサンスのいくつかの有名な作品について論評をした。その意図は、古くからある彫像は任意のあらゆる角度から観てよいわけではない、彫像にはむしろその一定の〔観るべき〕角度がある、〔ところが〕写真を撮影することが肝心のことになるやいなや、ひたすら許しがたい軽率さのために彫像にこのような芸術的に意図された角度が不当にも与えられないことになってしまう、こうしたことにふたたび意識をとぎすますということであった。残念ながら、こうした軽率さは一般に広まっているため、彫刻の満足のいく写真には稀な場合にしか出会うことがないほどである。ほとんどつねに通常の正面観が回避されており、しかもひとびとは「絵画的」な魅力を彫像に与えれば、つまり、やや横からの視点を採れば、彫像に最大限の満足を与えると思いなしているのである。そのために大部分の場合において最良の価値が失われてしまっていることを知る人はほとんどいない。

アリナリの写真がそうしたとんでもない例として挙げられる。
例えば次の二枚。そして複製版画。
 
ヴェルフリンによれば右の写真のほうが、彫刻のもつ本来的な視点を再現しているという。腕が視線に平行になり、頭部が真横を向き、両足がこちらから見て交わるようになっていること、そのことで彫刻の力強さやまとまりや柔軟さや安定性は効果を取り戻すのだと。ちなみにヴェルフリンが認める複製図版はラファエロの時代の複製版画である。
この、「彫刻はどのように撮影されるべきか?」という論文が書かれたのが、1890年代(1896,1897)。こうした内容とは対照的に、ヴェルフリンが、世紀転換期以後に自身の授業でスライド写真を用いながら「理想的観者」を演じるスライダーとなったという事実が他方である。ブルクハルトとの書簡であれだけ自分の著書への図版挿入を敬遠していた彼のこの変化はとても気になる。…その前に19世紀半ばに起きた彫刻写真をめぐる問題もまとめておかねば。

以上つづく。