空耳スリラー

ふとマイケルが気になって探しものをして見つけたインド版スリラー
そら耳的字幕つき。

■彫刻写真論
それだけではない。50年代の写真の変化のひとつとして、コロディオン法の導入がある。カロタイプとは違う光沢ある写真の表面、それが写真を見通させるための物質的基盤になったと言うこともできるのである。
今日はここまで。

■アナモルフィック・アーカイヴ

Rethinking Art History: Meditations on a Coy Science

Rethinking Art History: Meditations on a Coy Science

久々に開く。この第三章「the Panoptic Gaze and the Anamorphic Archive」も写真と美術史の問題を議論している。
「美術史という現代的学問を構成している諸機構の強力な網目は、写真の存在を前提にしている。事実、今日私たちの知っている美術史は写真の落とし子なのである。19世紀末の四半世紀におけるアカデミックな学問としての始まりから、フィルムの技術が分析的な研究、分類学的な整理、歴史的、系譜学的な物語の創造において重要な役割を果たしているのである。ランタンのスライド投影はかなり早い時期にこの領野に入り込み、研究、分析、イメージの比較のフォーマットを確立したのである。
 しかも20世紀に現存するこの学問的機構全体が、これに相関するテクノロジー――映画――なくしては考えられないのである。数多くの重要な点で、現代の美術史は、このうえなく映画的実践だったのであり、映画的〔filmic〕手段による歴史的物語や系譜学の呈示の組織化に関わってきたのである。要するに、現代の美術史学は、映画的実践のメタファーに基礎づけられており、ほとんどすべての側面において、美術史は、リアリズム映画の言説的論理をたえず参照し、その論理を含意しているほどなのである。美術史のスライドはつねに歴史映画のスチルとして組織されている」。

 映画という喩えないしは技術への言及の根拠が少し不安なのはさておき――――、1890年代の美術史と映画という問題は、別個に立てることもできるテーマである。1890年代における映画の誕生と美術史へのスライドの導入は、静止と運動の微妙な問題を照らし出しているのではないか。スチル/ムーヴィング問題をここから切っていく可能性も考える。ガニング論やラルティーグ考の分岐線にもなる。