再開

昨日も今日も大学。

■彫刻写真論
その二年後1853年のロンドン写真協会でのさまざまな発言もこうした写真の機能転換のタイミングをしるしづけている。そこでは、王室からの後援を約束する書簡が読みあげられた後に、次のような憂慮すべき事態について言及した論文が読みあげられたという。
 それは、写真が現在リテラルなものになってしまっている、このままでは芸術作品と競合しえない、写真に芸術性を帯びさせるべきである、という内容のものであった。芸術の他者としての写真の規定、言い換えれば、写真がリテラルに透明に事物を伝えるイメージであると見なされるのがこの時期のことなのである。この、機械による自動的な刻印、科学的手段としての写真という見解が、写真の商業的生産をおしすすめることになる。
 これにともない、19世紀半ばに諸外国の有名な景観、建築物、絵画、彫刻の写真が生産消費のアイテムとして姿を現しはじめる。例えば、アリナリ、フリス、グーピー、ウィルソン、ベッドフォードなどの名前を挙げておけばよいだろう。プリント生産のしかたも変化する、以前よりも生産工程がさらに細分化され、写真は大量に生産される。商品としての写真、そこに記載される名前(例えばアリナリ)は、制作者や著者性を示すというよりもむしろ、企業の自己宣伝の記号だった。カメラマンでもなく、プリンターでもなく、アリナリという会社の名は消費者がさらに同社のカタログを見てプリントを注文するための印だった。

 ここで昨日挙げた光沢がこうした変化のなかでひとつの役割を演じる。写真が帯びる光沢ある表面――グラフィックアートのなかでは先例のない特性――は、複製可能な商品のもつ外見となっていた。(トルボットらを第一世代とすれば)第二世代の写真家たちは、色調の多様性よりもむしろある限定された範囲の色調の範囲内で作業を行うようになる。この物質的な特性の変化、そして先に述べた生産方法の変化にともない、写真の表現方法も変化することになる。
 光沢あるプリントはすべての細部を克明にすることばかりでなく、プリントのコントラストと色価を増大させる。つまりそうした表面はどんなに低い色調の価値にもより深い奥行きを与え、色価を最大限にまで高める。こうした条件は写真の描出方法に影響を及ぼす。これがまずひとつ。
 次に表象的伝統との断絶がある。
 先の商業的生産は、写真の最初の世代の制作者や観者には知られていた表象の伝統を少しも知らない企業家たちに生産手段を委ねている。この変化を示すのは王立写真協会の以下のような事実である。同協会は、1854年には芸術家、法律家、弁護士、科学者たちによって形成されていた。しかし、それが実業家の支配する同業者組合に変容していく。1860年代までには先の創設者のほとんどは協会を離れてしまうのである。絵画的伝統にしたがった主題の選択、描写の効果への多様な関心が、限定された法則に移行する。
 では彫刻写真の場合、撮影のしかたにどのような変化が生じているのか。
 
■ブラウン本
Image and Enterprise: The Photographs of Adolphe Braun
 同著者のこれとは別の彫刻写真論文を読んでいる。彫刻写真の系譜が概観できるとても目配りの効いた論文。アドルフ・ブラウン論は、いずれ複製写真論でまとめないとならないので、買い物籠に入れておく。彫刻写真論を拡張していくと現代美術における写真の用法にもつながる。