筋肉写真


■サンドウ論
 下記の彫刻写真論の資料を漁っているうちに、サンドウ先生がどうにも気になってしかたなくなってきた。あの初期映画でひたすら筋肉に力を入れていることで有名なあの先生である。
 こんなサイト――右上のサンドウアイコンをクリックすると果てしない筋肉ワールドが展開される――もあんなサイトもある――筋肉の殿堂、筋肉のギャラリーは右コラムの各種写真。
サンドウ動画はここ
 もう少し真面目に話をすれば、
 世紀転換期にようやく日の目を見たボディビルディングは、一面では静止と運動をめぐる広範な問題に関わっていたのではないだろうかと思う。彫刻と並べられた筋骨隆々としたヌード写真は、どこかしらそうした読みを促してくれる。もちろん政治的含意は当然無視できないが。
 映像における運動が充分に実現されて敢えて静止してとめる、しなやかに動くはずの筋繊維をかためて静止させる、この問題をサンドウ問題ととりあえずつけておく。
Sandow the Magnificent: Eugen Sandow and the Beginnings of Bodybuilding (Sport and Society)Sandow the Magnificent: Eugen Sandow And the Beginnings of Bodybuilding (Sport And Society)Kraft und wie man sie erlangt

■彫刻写真論
 ヴェルフリンの議論を紹介した時、その発火点になっていたのは当時大量に流通していた複製写真、その画像構成であった。奇抜な角度、つまり斜めの角度から対象を捉える写真がその例である。彼ら写真家が、彫刻をその本来的な見るべき角度から撮影しないのは、写真とその撮影者に「芸術的」外見を付与するためである。しかし、そうした余計な試みによって彫刻の諸部分の連関性は台無しになってしまう。。。こうした主張がステレオ写真批判であった。このテクストで参照されるヒルデブラント『フォルムの問題』でも、ステレオ写真がひとびとの鑑賞能力を低下させてしまうという旨の批判が述べられていた。
 以前、スライド論を書いたときには言及できなかったが、こうした批判が半分はステレオ的視覚を外してしまっているのではないか。
 一方で、ステレオ写真は対象への斜めの角度を多用する。それは対角線構図、手前から奥へ向かう構成をとるためである。なおかつ被写界深度も充分に実現される。そこに対象を前後に重ねて配置する。立体物はエッジの際立った平面として空間を次々と占拠し、その間の空間は不気味なほど静かな真空状態になる。ステレオ写真の効果として目指されたものはこれであって、必ずしも写真家の芸術性のためという理由から、斜めが選択されたわけではないのではないか。
 単体の彫刻作品のステレオ写真、そこでは無地や暗い背景の前に、彫刻の胸元あたりの高さに設定された水平な視点が選択されている。しかし、彫刻を斜めから撮るのはその構成要素の重なりを面的な集合として再編集するためであったのではないか。先に紹介したステレオ写真におけるアポロ像の手がなぜ観者に対して斜めに突き出す角度で撮影されているのか。昨日紹介した写真がなぜ斜めから撮影されているのか。それはステレオ的視覚から考えれば、よく分かる。芸術もその他の対象もひとしく、その面的構造のなかへ解体し再編していく。19世紀半ばの万博の彫刻写真への反応――立体性、明瞭さ、それらの過剰――は、実はこうした事態をいち早く捉えていたのではないか。次は80年代の彫刻写真。