子ども写真考

■エコー写真論 つづき
さて以前も少し書いたエコー写真考を考える。テーマは子どもの日にちなんだもの。当然世に思いなされている子どもらしい写真をひっくり返すような素材を探す。
A Child Is Born: Fourth Edition of the Beloved Classic--Completely Revised and Updated

 で、リザ・カートライト『視の実践』のエコー写真の節をざっと読む。
 身体内部を表象するうえで、イメージ技術は歴史を通じてさまざまなものが中心的役割を果たしてきた。もちろんイメージはそれ自身だけではなく、文脈、呈示の仕方、テクストによる語りによって意味を変化させている。1890年代に登場したX線写真、1980年代に登場した超音波写真がそうした例になる。とくに後者は、医学的な視線にさまざまな欲求や意味が絡み合う例として議論される。超音波写真は、すぐに産科学に取り入れられた。X線とは異なり危険にさらされることなく、胎児やその発達、母胎をイメージ化する手段として利用されることになる。
 しかし、10年もたたないうちに産科学にはこの手段は何の影響ももたらさないことが分かってしまう。それなのになぜ、こうした写真はしばしば使用され、広まっているのか? 彼女の答えは、医学を超えた目的に胎児写真が役立っているからだというものである。超音波胎児写真は、未来の子どもの「ポートレート」として家族に享受される、ある種の通過儀礼的イメージとして役割を演じている。やがてこの写真は、子どものアルバムの最初のページを飾る写真になるのである。肖像写真のアウラ、これを胎児写真は帯びる。
 さらに90年代には、超音波像や内視鏡によって自身の身体の内部をリアルタイムで見ることができるように、あるいはその録画テープを後からも見ることができるようになる。また同時に、非医学的な広告のなかでもこうしたイメージが登場するようになる。例えば1996年のボルボのあの有名な広告は、その一例である(これも挙げておきますが、問題があれば削除します)。ここでは紙面全体を胎児の超音波写真の体裁をとったイメージが占め、下部には車のイメージと「Is something inside telling you to buy a Volvo?」というコピーが付けられる。
 座席に座ったように「造られた」胎児のイメージは、家族のアイコンとしての説得力をもち、それゆえに胎児の安全をまもることに関わる自然的/文化的欲求や不安に訴え、さらには車の中の安全と母体内の安全という比喩を用いて商品の広告を行う。
 胎児写真はテクストによる記述よりも、もっと強い感情的な結びつき――家族写真やホームビデオなどの映像にもみられる感情的反応――を生じさせる。医学的なものと個人的なものとの境界線がぼやけてしまうようなイメージ、それが胎児写真である。
 医学的診断での文字通りの手段を超えてしまうそのような意味や欲求が表面化したのが、『沈黙の叫び』というビデオである。このビデオが引き起こした論争は次のようなものであった。
 これはまた明日。要点は上の右のビデオが叫んでいるように早回しやスローモーションの操作がされているということと、左の写真集が母の体から切り離されてしまって表象されているということ。

■顔の合成古典作品
 ついでに前後も読む。例えば「遺伝学とデジタルな身体」の節。
 それにしてもタイム誌の表紙が一覧できるのはありがたい。タイム誌トップページはここ93年秋の表紙が上の本で例に挙げられている有名な例。作成中にスタッフはヴァーチャルな彼女に恋をしたそうな。
 この合成像れがナンシー・バーソンの顔シリーズの合成像と並べられる。バーソンの作品については、例えばこのサイトここのサイトで――最近の作品には超常現象的な写真もあるのに驚く――。
 19世紀末の優生学と各種合成写真と、20世紀末の遺伝学とデジタル合成写真が並べられる。この手の議論の基本的説明がされている。たしかに教科書としては読み応えがある本。
もういちど表紙を挙げておく。
Practices of Looking: An Introduction to Visual Culture