右から左へ受け流すこと


■笑いのコンベヤ
 ハイキングウォーキングはどうやら確信犯的に繰り返すようである。
 いやレッドカーペットの話。
 それにしても、キャラ芸人が短時間でコンベヤに乗って、右から左に受け流されるのは、もはやこれも確信犯的だと思う。キャラの摩滅を文字通り物理的に見せるということ。
 ちなみにコンベヤを逆走した数少ない芸人が、ムーディ勝山
 「2日前から後頭部に違和感のある男の歌」を歌いながら。

■エコー写真考つづき
 かつて中絶を行っていた医師が中絶反対運動を繰り広げる。彼がその際に使った戦略は、映像をつうじてのものであった。妊娠12週目の胎児(まだ生まれていない子ども)、その中絶、その後の胎児の様子をリアルタイムのエコー映像で呈示するというものであった。この映像によって彼はまだ生まれていない子も生きている、胎児〔fetus〕ではない、ということを確信し、自らの姿勢をかえることになったという。
 その映像『沈黙の叫び』は、視覚的、非視覚的な例を挙げながら「真実」を呈示する。しかし反論が生じる。この映像は、身体の形状が分かるもっと後の胎児を使用しており、時間やその動きをあたかも叫ぶように操作しているのではないかというのが批判の内容だった。器具が挿入されて「危機を感じた」胎児を描き出すために彼は、リアルタイムの映像を早回しし、あたかも体を激しく揺り動かしているように操作している。この発達段階ではありえない動きだったのだそうだ。
 真実を呈示するイメージの力に依拠した事例、それへの反論、これがこの一連のやりとりから見えてくる。しかし、イメージの虚偽性を単に暴くというだけでは、イメージの力は取り除かれることがない。操作を知っていようがいまいが、医学的な有用性を知っていようがいまいが、ひとびとはイメージのもつ感情的な力に動かされる(ここで参照されるのがジジェク『汝の症候を楽しめ』である)。それが真実ではないのは分かっている、それにもかかわらずこれに関与し、その関与を楽しむ。 
 エコー写真という例を扱ったこの箇所でのカートライトの意図は次のようなものである。 科学的といわれるイメージがいかに政治的、文化的な諸欲求に関わりあっているのか、そして広告や本の表紙などへとそのイメージが拡散し、もはや科学のイメージを科学的文脈の中で自律したものとして論じることはできない、そして逆にそうした政治的作用が科学的イメージを語る専門家たちにも作用を及ぼしているのではないか、こういうことである。
 平易で分かりやすいこの内容が、もう少し細かな検証を補って論じられたのが、『ヴィジュアル・ディスプレイ』の論文Gender Artifactである。産科医がエコー写真を語る言説がいかに上記の意味で自律的ではないのかが詳しく説明されている。
 何よりもカートライトは、現代美術における、そうした科学イメージの破れ目を見いだす実践の諸例を数多く挙げる。そういう意味では使いでのある議論、そして本。さらにはこれもまだ通読してはいないが、X線写真を論じたもう一冊の本『Screening the Body』もある。

■後知恵のイメージ
 少々胃もたれしてきたので、また紹介は仕切りなおしするとして、超音波の基礎が軍事的なソナー装置にあるという指摘は面白かった。音を聞くことや伝達に使用するのではなく、水面下にある対象から跳ね返ってきた音の波のデータを集めて対象の位置や密度を把握可能にする手段。しかしこれは視覚的ではなくともよい。図表、グラフ、一連の数値、さまざまな形態を採ることが可能である。データの翻訳としてのイメージ、後知恵としてのイメージ、この観点はもう少し拡げることができるかもしれない。