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■写真の理論の諸反応1
 先に述べたようにいささか不発の堂々巡りの議論を続けた論者たちの対話に対して、皆一様に批判を呈示している。その要点や気になった箇所をいくつか挙げていこう。

・まずはソロモン=ゴドーの反応。
 この討論に欠落している要素がまずあげつらわれる。そのひとつは、写真の非芸術的用法である。また、写真が持つ心理的作用の次元が何も言及されていない点も問題視される。そして数多くの過去の理論家が言及されないままであるということ(バッチェン、ダミッシュ、ディディ=ユベルマン、メッツ、セクーラ、タッグ、ヴィリリオ)、これも疑問を投げかけられている。
 そしてこうした欠如の原因となっているのが、討論の焦点であった、二つの概念――インデックス性と写真メディアの独自性(モダニズム的意味での)――である。この概念をめぐって議論は時に激しい口調になることもあった。しかし、どこかしらこの対立は、19世紀以来の写真は芸術か否かをめぐる論争に酷似しているとソロモン=ゴドーは考えている。
 ただし少々違うのは、芸術をそのメディアの独自性を基礎にして自立化させ、遊離させようとする言説は、写真のインデックス性を否定しなければならない、しかし、その写真特有の視覚を肯定するには、カッコつきでインデックスを保持しておかなければならない――それゆえに、非芸術的な写真はもとより、モンタージュやデジタル加工の写真は極力排除されるのである――。そうこうしているうちに、インデックスは写真の芸術性を支える口実として、意味の不確かなまま各論者に使用されることになる。
 写真の美術における地位を保証している言説の力学や矛盾が明るみに出る、それが大部分アートワールドのなかでの議論に終始した対話の不発の要因である。こんな感じである。
 指摘として興味深かったのは、議論の中でのクラウスの不在ゆえの強烈な存在感ということ。インデックス概念がアメリカで「第二の生」を授かったのは、クラウスによる戦略的な用法によるものである。インデックスはメディアの独自性へと還元されていくモダニズム的傾向に抗するための装置だった。1970年代から80年代にかけての芸術の動向を、モダニズムの自立性への還元からずらすためのツール、それがインデックスであ(り、もうひとつ重要な複製の概念であ)った。つまりインデックスが用いられ作用を及ぼすもっと広範な磁場を抜きにしては、この概念は骨抜きになってしまうのである。…ところがクラウスの最近の(とは言っても99年の)著作ではこうした戦略から別の戦略への移行が生じている。もしかするとそれはある種の撤退であり、メディア独自性への回帰とも取れてしまう移行である。

 代替案を呈示する結論部は明快である。なぜ政治的イデオロギー的な形態を物理的に多様な仕方でもつ写真を「写真そのもの」の概念化によって切り捨ててしまうのか、もしそうした概念化をするのならば、写真を広範な意味での「装置」という概念から考察したほうがよい、つまり写真の物理的存在、写真/写真的なものへの欲望を組織している機構、それが全体として問題化されるような枠組みが必要なのだ、ということだった。

以上、ソロモン=ゴドーのリアクションの大雑把なまとめ。