MF、CS

■写真の理論の諸反応2
 次はミシェル・フリゾの反応。写真史になじみのひとならご存知のこの本の編者。
 

Werke in vier Bnden. Band 4

Werke in vier Bnden. Band 4

 ここでのコメントのタイトルは「汝、何ゆえ光を恐れるのか?」。
 その前半部、つまりラウンドテーブルへのコメントをした部分だけざっとまとめてみる(後半は彼独自の写真を扱うための方法論の開陳という性格を有している)。
 前半の要点はひとつ。なぜインデックス性の議論に論者たちがかくも長々とこだわっているのか(なぜ光に目を向けないのか)という批判である。
 インデックスという、とくに写真に関係している訳でもないパースの著作のごく一部からもってこられた概念を、なぜ写真という「記号」の独自性の基礎になると皆信じているのか。火と煙の関係ぐらい因果性の危うい概念の因果性に依存すること、それがラウンドテーブルの堂々巡り(煙に巻くような議論)という結果をもたらしている。
 さらには生真面目に、インデックスのみならず、イコン、シンボルという三つの記号の概念を考慮に入れる研究者さえいる。そのとき、事態はますます悪化しかねない。そもそも現象が区的なレベルを異にしている三つを混ぜ合わせてしまう議論になってしまうからである。あるいはそれが撮影のことを言うのか、知覚のことを言うのか、解釈のことを言うのか、そもそもが分からない。
…というように議論は延々と続いていく。これはすべてフリゾの言葉。
 バルト『明るい部屋』にも噛み付くフリゾ。以下彼の言葉をざっとかいつまんで紹介しておく。皮肉がてんこもりである。

〔このテクストは〕文学作品であり、母のイメージについてのエッセイであって、理論ではない。それは写真を目にした際に生じることがらの内的な説明である。ただしそれは、写真がいかにして作り出されるのかという問題、あるいは写真を誰が作り出しているのかという問題にアプローチすることはないのである…〔中略〕…「プンクトゥム」はけっして、明確に規定された理論のはっきりとした要素ではない。それは想定であり、私的な言葉であり、写真を見る者誰もが〔そうした体験を〕個別化した結果なのである。

■写真の理論の諸反応3
次は、キャロル・スクワイヤーズの反応。その論点と素材はひとつ。エルキンスが呈示した一例が議論を沈黙させる。その後、エルキンス自身がこれはイメージとして読むことはできないし、議論にとって非生産的だと述べた事例である。それはサイド・スキャン・ソナーの画像である。それは観ることではなく音によってデータが収集され視覚化された像である。討論の参加者たちは沈黙してしまったが、むしろこうした像もイメージのひとつとして組み込むような枠組みがここでは要請されているのではないか。「写真的なもの」を扱うには、芸術家の制作した機能も美的なものに限定されたイメージを遊離して自立化させるよりも、むしろデジタルイメージも含んだこうした諸イメージの連続体からの考察のほうが有効ではないか。これがスクワイヤーズの手短なコメントである。