ML、GB


久々に少女マンガを読む。そのコマと線のニュアンスの細かさ。

ローラカイザー (1) (Princess comics)

ローラカイザー (1) (Princess comics)

そして『しんきらり』と『寄生獣』も久々に読む。


■写真の理論の諸反応4
以前デジタル写真論で紹介したマーチン・リスターの反応。
対話の中心にある「写真は何であるか」の概念化、それに伴い提起されるいくつかの概念(インデックス、刻印等)、こうした事柄をめぐる議論、それは、学問的制度のなかでの抽象的な議論にとどまってしまい、その概念や問題の作用圏域を狭めてしまっている。むしろそうした概念がいったいどのように実際に生産的なツールになりうるのかを問わなければならない。
 そのためには現在のイメージの状況、とくにデジタル・テクノロジーの普及を省みておく必要がある。写真をめぐる議論の基底にある現前/不在の弁証法と、情報が基底にしているパターン/ランダムネスの弁証法、こうした力学の変化も視野におさめられる。しかし、リスターが強調するには、写真はそうしたメディア的環境の中ですっかりデジタル・イメージに置き換えられてしまったわけでもない。あるときには両者は折衷的に用いられる場合もあるからである。単純にデジタルイメージによる写真の死ではなく、この両者が浸透し合った状況を捉える必要がある。そのうえで不在/現前の弁証法は完全に説得力を失ってしまったのか、これを問う必要がある。
 彼はコメントの最後に現在の写真の状況を示唆する三つの事例を挙げる。第一に湾岸戦争直後に撮影された写真家の写真、第二にグラウンド・ゼロのマイエロウィッツの写真、第三にイメージアーカイヴにおける写真の問題である。写真はデジタルテクノロジーに取り囲まれ、その隙間で不在を二乗するような意味作用を行う場合もあれば、ある種現在のメディア環境のなかでイメージの焦点となったシンボルの不在を呈示することで写真による記憶のプロセスを救い出そうと試みることもあれば、情報のフローのなかへ写真は参入し、それにともなうヴィジュアルコンテンツの連続体の一部として写真はそのあり方を変化させつつある。
 こうした個々の事例についての考察が散発的で相互につながりを持たないままであることこれが現在、問題的であり、写真についての思考は、そうした諸事例をつなぐとともに、先の現前/不在の弁証法がそこでどのような摩擦を起こしうるのか/起こしえないのかを考えるべきなのではないか、これがリスターの主張である。
 途中で言及されたポール・フロッシュの「メッセージなきコード」という語が面白い。

■写真の理論の諸反応5
 五番目はバッチェン。コメントはきわめて短い。他の論者との大きな相違点は、確かにバッチェンも写真文献でのインデックスやプンクトゥムの濫用には眉をひそめるものの、バルトのこうした概念をけっして放棄しないということである。ただし、その読み直しは独特である。例えばインデックスには、現実性そのものも、主体も客体も飲み込む力動的な記号相互の作用の場への契機を見るし、プンクトゥムは代補であるといい、その置きずらす運動へと写真を切りひらいていこうとする。異論はあるだろうが、バルトを主観的個人的なエッセイと切り捨て、その主要な概念を求心的な核と見なすのではなく、バルトを散らすための処方箋をバッチェンは与えているように思われる。