米沢報告


味写
こんな写真の鑑賞法。


■日本記号学
 から戻ってきました。テーマは「立ち現われる写真」。ラウンドテーブルのテーマは「写真のトポグラフィ―写真の語り難さについて―」。
 私の報告については現時点で最も端的に写真の語りにくさのお題を整理して三段階で話をすること(だったと思う)。内容は大体こんな感じ。
 写真は現在過剰なほど語られているけれども、それがどうも語りにくいものになっている。その原因は何か、それをずらす語り方はないのか。具体的には、2007年に出版されたエルキンス『写真の理論』のラウンドテーブルの空論ぶりをうけ、そしてそこに掲載されたラウンドテーブルへの批判の空転ぶりも含め、そこで何が問題か、それをどう開いていけるのかという報告をする。前川長い、たしかにそうでしょうが、でも前川は整理役だったのでそれは勘弁してください。当日のレジメと事前に出した要旨は本サイトにアップします
 ただ、それをうけたはずのラウンドテーブルでもやはりなかなかかみあわず、時間切れの感は否めなかった。犬伏さんとはもう一度、集中的なディスカッションを今度は関西でやってみようと思う。このときには当日司会をした小池さんにパネリストとして加わってもらうとかえって面白いと思う。

 それはさておき、学会に3人のアーチスト/写真家が呼ばれてセッションを行うというのも他ではない試みだったと思う。話を聞いていて面白かったのは、いわゆる「かなり強い」写真を撮っている写真家のかたがたが、自作DVDのスライドショーを流し、その前で実に幸せそうに喋る様子だった。全部デジタル化されてるのに、、、。それが今の写真の語り難さの面白さでもある。
 もちろん、写真をスライドショーで見せるということは、すでにナン・ゴールディン『性的依存のバラード』――あの写真集を捲っても分からない部分が多いのはこの呈示方法にその核があるからだと思う――以来、アート・フェスティヴァルでの写真のプレゼン方法の主要な方法になっている。しかもそれはデジタル化された写真シークエンスとしての構成物である。時には音楽もつけられる。これはスライド論としてひとつ重要なトピックになると思う。写真と映画のあいだ、スチル/ムービングのあいだの問題にもつながる。
 写真は他のものを指し示す、あるいは他のものやメディアを他のものへと横にスライドさせてしまう、そしてその他のものをせきとめて写真へと折り返してしまう、そういう写真的なもの、写真的な問題を本当はもっと議論するべきだったのかもしれない。

■米沢顔ハメ
 右は駅前にあった顔ハメ写真パネル。愛の真下に顔。
 通りすぎる観光客をみていると、どうやら顔ハメは親子にとってはフォルトダーの遊びだということも理解する。顔の穴のトンネルを通じて消失と現出が引き延ばされるための装置。(写真はわざわざ大阪からやってきたD大の院生。コワバッタ笑顔が素敵な一枚。ある意味いないとおもったらいた的な顔ハメ写真。お疲れ様です)。