監視映画論2


■視聴文研論
 2日前のコメント欄に関しては、諸関係者よろしく。あまり時機を逸するのもつまらないので、勝手ながら、次の書き込みまでのリミットは1日以内に限定しておきます。もし何もなければそれで終了させます。また書き込みがあった場合には、当の「京大院生」氏には、シニカル&アイロニカルなコメントにとどまらずにそれなりに続けて議論する気があるなら、それに応えてもらおうと思います。
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その後id:yasuhamuくんがコメントを書いたので、目組のひとの書き込み希望。
 こういう議論がライブでおきない、あるいはウェブで書きっぱなし書かれっぱなしになっている、それが蛸壷化&脆弱なミーイズムなのです。議論すべきいい機会だと思います。
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 その後、書き込みと応答がありました。皆様お疲れさま。…ご心配なく、これは「荒らし」ではないです。もちろんちょっと混乱して議論がずれていますが。
 下にも書いたように、今日の19時まで受け付けます。たぶんそれで終結するでしょう。

■監視映画論2
ようやくレヴィンの議論全体を整理したので順番に監視映画を観ている。
まずは『カンバセーション』をざっと見直す。
この映画について過去にどのような批評があるのかを探しているが案外何もない。
この映画、カメラワークの揺れ動きが基調になっている。とくに左右にパンする執拗な動きは、パン・ティルト・ズームを行う監視カメラの動きと同調している。物語を明瞭に分節していたカメラの位置や光景の切り取り方がちょっとした拍子にそうした揺れを起こす。それがどちらの視線なのかが危うくなる瞬間が生じる。
 レヴィンが言うには、音の次元でも、視点の次元でも、物語世界内と物語世界外の微妙な混ざり合いがこの映画の核である。しかもそれは同時に監視的な問題が70年代頃からそれまでとは異なる投入をされはじめた徴になっているという。それを主題としての監視から構造としての監視という言い方をする。
 ここでレヴィンは、監視映画のこうした――主題としてではなく――映画的語りの形式としての監視へのシフトには、メディア史的な問題が少なからず関係していると言う。つまり、写真のデジタル化による現実指示性の基礎の切り詰め、そこで起きた映像と現実との関係のずれ、それが直接的にではないが、映画の語りのレトリックに現われている、というのである。(続く)