憑依されたメディア4

■憑依されたメディア

(・無線のさまざまなエピソードの続き)
 他にもこんな挿話がある(1923)。結婚式を控えた若い男女、その花婿が突如犬のように吠え出す。どうやらラジオ放送の催眠術師の術にかかってしまったということが分かる。あるいは、こんな話(1927)。ある日男性映画スターが昏睡状態に陥る。その彼女はある方法を考える。彼のファンに病室ではなく各地の映画館に集合してもらい、ラジオを通じてある時間に彼が目覚めてほしいという思念をいっせいに送ってもらう、、、。

 無線とテレパシーについてのこうした数多くの話は、隔てられた恋人同士を中心にしている。『無線で求婚』(1908)、『無線で駆け落ち』(1908)等のタイトルを見れば、20世紀初頭の求愛の新たな流行の方法として無線が採りいれられていることが分かる。

 ただし、無線はこうした物語をつむぐ際に、もうひとつの悲劇的な隔たりを演出しもする。「エーリッヒ・ヴァイゲルトの実験」(1923)では、マッド・サイエンティストがこんな思念伝達実験をする話。自身の妻と彼女への求愛者を被験者に選び、隔たった部屋でラジオ受信機につなぐ。嫉妬に狂った科学者は彼女を殺し、その際の思念が求愛者に届いたかどうかを最終実験で行う、、、。死と交信がここでも主題化される。
 さらにもうひとつ。クリントン・デンジャーフィールド「メッセージ」(1931)。死刑直前の囚人がラジオから恋人の声を聞く。無罪の証明がなされ、免罪状を今携えてそちらへ使者が向かっている。しかし問題がある。なぜなら彼女自身は今日の朝交通事故に遭い、免罪になるならば彼は一生彼女なしで過ごさねばならない。別の選択肢がある。霊になった彼女が使者の気をそらして到着を遅らせ、死刑を執行してもらう。そうすれば二人は永遠に一緒にいることができる。監獄にいた牧師は、死刑前の彼の心情を和らげるための存命する彼女の配慮だと思う、ところが、、、。

 こうした近さと遠さが無線や初期ラジオによる交信の魅力の源になっていたのである。

・エディスンの亡霊
 発明王である彼が晩年に死後の世界との交信可能性を論じていたことは広く知られている。1920年のインタヴューで物理的な身体の消失以後の人格や個体性のあり方、その微小な構成単位について彼は語っている。本書の文脈で面白いのは、エーテル的な大洋のなかに拡散し、霧消してしまう言説にたいして、エディスンがオルタナティヴをつきつけているということである。
 エディスン自身、死後に霊として技術者に生前に開発中であった装置についてアドヴァイスを行ったりしている。。。案外ここら辺の記述は淡白に終わる。
 この章の残る部分はテープやラジオを使用した霊界交信の諸実践の歴史である。
 Mark Dyneによる1960年代の言説(霊の周波数、波長を見出すべし)、Attila von Szalayによる同様の主張とその成功(1956)、1950年代に始まるユルゲンソンのマイクとテープレコーダー、後にラジオによる同種の実験(1967年に『死者とのラジオ交信』出版)が列挙される。
 なかでもユルゲンソンの諸実験にともなう言説の紹介が詳しい。空室にマイクを置き周囲の音を拾い精査するという録音再生調査方法から、ラジオのチューニングという交信方法への移行が、霊の声自体による指示だということ、「今」「録音して」という霊の声があったこと、霊の言語の特性――リズムをもち、電報的文体であり、多国語的言語であり、新造語にとんだものだったこと――などが説明される。
 ユルゲンソンへの批判として、心理学、精神分析からの反論が挙げられるが、実はフロイトとユルゲンソンはともに共通した要素をもつと筆者は述べる。たしかに歪曲、圧縮され、夢の論理に従うような言語を手がかりとし、無線の時代における主体の統一の喪失に直面し、主体を分割した空虚(無意識)を対象としたという点では、両者は平行している。もちろん両者には技術の使用において差異はあると筆者は断り書きをするのではあるが。

 もちろん、私としては、文字通りの技術装置というよりも、ある種の組み立てを備えた装置としてならば、この差異はそれほど気にならないとも思う。これは機会を見て考えたい。

以上無線の章紹介。(つづく)